ある夏の日
「パパ〜、来たですよ〜!」
夏のある日の昼下がり。そういって顔を出したのは、帝都ならぬ世界中で人気の女優ソレッタ・織姫であった。
ノックもせずに長屋の戸を音立ながら開けると、父―緒方星也が見知らぬ男とお茶を挟んで話をしていた。
>帝国華撃団の隊長である大神一郎よりも少々年上だろうが、彼よりもいささか気弱な印象を受けた。
「あ、では僕はこれで…」
織姫の姿を見た男は緒方に礼をすると、そそくさと立ち上がり、入り口で素早く草履をはいた。
そして、織姫にも軽く会釈をして出て行った。
「…今の誰ですか〜?」
「隣り町に住んでいるガラス職人の清水さんだよ。
この前の市で知り合って、さっきも道でばったり会ってね。近くだったし、お茶に誘ったんだ。」
緒方が紹介をしている間に、織姫は戸を閉めて靴を脱ぐ為に腰を下ろしていた。
「ふーん。なんか気弱そうな男ですね〜」
靴を脱いで座敷に上がると、織姫は足を伸ばす姿勢で座り込んだ。
畳の上で楽な姿勢でくつろぐのは織姫のお気に入りの動作だった。
「はは…でも、彼のガラス職人としての腕は、若いながらも確かだよ。
彼もつい最近まで伊太利亜に留学していたそうだよ。」
「へぇ〜イタリアですかー!」
イタリアという地名を聞いた途端、彼女の声が幾ばくか弾んだ。
イタリアは彼女の故郷であり、思い出も詰まった国なのだ。
そんな織姫に緒方は笑いかけると、すっと立ち上がった。
「さて、じゃあはじめようか。
織姫。二階に来てくれるかい。」
「はーい、パパ。」
すぐさま織姫も立ち上がると、二人続いて少しきしむ階段を上る。
緒方は一連の動きで木炭、スケッチブックを手にすると簡易椅子代わりの木箱に座ると、すっと窓際を指差した。
「じゃあ、そこ窓辺に座ってくれるかい。織姫。」
「はーい。」
素直に指定された場所で、今度はきちんと足をそろえて窓縁に腰を下ろした。
すぐさま微笑みを浮かべて緒方の顔を見る。
「もう少し右に…そうそう。うん、表情もいいよ。それでいこう。」
納得すると、緒方は黙々と木炭を走らせた。織姫は、そんな父の様子を穏やかな気分で見つめた。
(…絵を描いている時のパパはカッコイイですね〜)
腕の良い画家である緒方は、モデルと向き合いスケッチブックを開いているときの顔はいつもの温和な表情ではなく、真剣勝負に臨む男の顔をする。
なんとなくこそばゆい気持ちになった織姫は空を見るように目線を上に向けた。
その視界に、夏の光を反射させて佇む風鈴があった。
「パパ、これって風鈴ですよね〜?」
織姫の質問に、緒方は手を止めて織姫の目線の先の物を見る。
「ああ、そうだよ。
それはこの前清水さんに貰ったんだよ。その風鈴、彼が作ったんだよ。」
「へぇ〜!そうなんですか〜
ところでパパ。どーして涼しくなるわけでもないのに
ニッポンは夏に風鈴を飾るんですか〜?
不思議でーす。」
「はは、それはね…」
緒方は織姫の姿勢を初期に戻すようにジェスチャーし、再び木炭を走らせながら答えた。
「昔、夏の暑さを少しでも和らげようと、少しでも涼しくなるようにって
水を撒いたり、綺麗な音がする風鈴を下げたりしたんだよ。それが今でも続いてるんだよ。」
「気の持ちようってことですか〜?」
「そうだね。他にも風鈴はその音が魔物を寄せ付けないって、魔よけの意味もあるんだよ。」
「ふーん…魔よけ、ですか…
それはおいといても、やっぱり涼しくなるわけでもないのに、なんだか変ですね〜。」
「でも、風鈴の音は綺麗だろう?」
「まぁ、確かにそうですけど…」
もう一度、織姫が風鈴を見上げるとそよ風がちりちりと風鈴を鳴らしていった。
そんな親子の会話を交わす数日前…緒方は大帝国劇場支配人・米田一基のもとへ挨拶に来ていた。
「実は、今度川角出版というところからイタリアの特集号を出すのですが
その表紙に織姫を書かせていただけないかと思いまして…」
「それって、パパがわたしを描くってことですか〜?」
久しぶりの父の来場に、織姫も支配人室へと同席していた。
たまたまロビーを通りかかったときに父の姿を見つけ、そのままついて来たのである。
「ああ、そうだよ。…どうですか、米田さん?」
真摯な態度の緒方に、米田もいつもの酔っ払い調ではなく支配人として、また娘を預かる身として答える。
「どうもなにも、もちろんいいですよ。
織姫も、嫌じゃねぇだろ?」
「もっちろんでーす。」
織姫の弾んだ声に、緒方も米田も微笑む。
「ありがとうございます。」
緒方が深々と礼をすると、米田は笑みを浮かべて答えた。
そして、話は冒頭へと戻る。
緒方のスケッチはその日の日暮れまで時間をかけ、愛する娘の姿をしかと描きとめた。
それから数日後…ラヂオが今年一番の暑さと告げた夏のある日。売店の前を通りかかった織姫の耳に澄んだ音が届いた。
チリーーン……
「椿、それ風鈴ですね〜」
売店の上部に取り付けられた赤い金魚が描かれた硝子風鈴を指差しながら夏の暑さにも負けず働く看板娘、高村椿に声をかける。
興味深々な織姫に椿は笑顔で答える。
「ええ、そうです。今日ここに来る間に買ってきたんです。」
「ニッポンはどこも夏にこれを飾るんですね〜。」
「そうですね、日本の夏の風物詩ですし。」
取り留めの無い会話を交わす。
帝劇の売店は公演が有る無い問わず開いている。そして、今日のような休演日には時折ここで住み込み生活している花組スタアが通りかかるときもある。ファンの間ではその偶然を狙ってわざわざ休演日に劇場を訪れる者もいるとか。
その噂の審議は定かではないが、いいタイミングで玄関から一人の男が入ってきた。
「あ、いらっしゃいませ!」
椿がいつもの調子で挨拶をする。織姫も振り返ってみると、見覚えのある男が劇場を見回すように目線を泳がせながら売店へと足取りを進めていた。
「あ!たしかパパの所にいた…」
「え?あ…!あなたは緒方さんのところでお会いした……」
呼び止められてようやく織姫に気づいたのか、心底驚いた表情を見せる。
「織姫さん、その方とお知りあいなんですか?」
「パパのところで一回会っただけで〜す。えっと…名前は……キヨミズさんでしたっけ。」
椿の素朴な疑問が織姫の耳に届くと、頷き説明をした。>
キヨミズは少し申し訳無さそうに苦笑いをすると、織姫の間違いをやんわりと訂正する。
「あの…キヨミズではなく、清水(シミズ)です…」
「あっと…そ、そうとも言いまーすね〜」
「それにしても、緒方さんの娘さんが帝劇女優だったなんて、知りませんでした。」
「!?なんでわたしを知らないですかー!」
自分を知らない人間がいるのが帝劇に訪れるのが気に食わないのか、織姫はムッとなりつい怒鳴ってしまった。
その迫力に清水は少したじろいで弁解してしまう。
「あの、僕が見た帝劇の公演は太正13年の春公演でしたから…
その後すぐに伊太利亜へ行ってしまって…ついこの前日本に帰ってきたんです。」
「じゃあ、私と入れ違いだったですか。で・も!
イタリアにいてわたしを知らないとは言語道断でーす!
このイタリアの劇場という劇場を常に超満員にしてきたソレッタ・織姫を知らないとは言わせませんよ〜!!」
織姫の自己紹介に、清水は心底驚いたのか、目を大きく見開いた。
「ええ!?あの、伊太利亜演劇界で太陽の娘と言われた、ソレッタ・織姫さん?!!
たしか、今は日本で活動中って聞きましたが…帝劇の女優さんになっていたんですか…」
「気づくの遅いでーす!」
「し、失礼しました……」
織姫のことをようやく理解した清水は、呆気に取られた顔で織姫へと頭を下げた。
ようやく満足した織姫は清水に笑いかけた。
「それで、今日は何で来たんですか〜?今日は休演日ですよー。」
「あ、はい…久しぶりにゆっくりと売店を見ようと思って…」
「そですか。せっかくだからわたしも一緒に見てあげま〜す。」
「ええ!?そ、そんな…恐縮です…」
「いーから!人の好意は素直に受け取るものでーす!
椿、なにかオススメは無いですか?」
気後れをしている清水にかまわず、織姫はそれまで会話をじっと聞いていた椿に意見を求めた。
急に呼ばれた椿は「はいっ」とすこし上ずった声で返事をした。言われたとおり目ぼしい商品を選び出している間に、清水も控えめながら商品を眺め始めた。
「そうですね〜やっぱり、ブロマイドが一番オススメでしょうかね。
季節ものだったら団扇とか扇子とかありますけど…」
「ええっと、じゃあすみれさんの扇子と織姫さんの団扇をお願いします。」
「はい!毎度ありがとうございます!!」
椿は笑顔で答えると、指定された商品をせっせと取り出し、袋に入れて差し出した。
代金のやり取りを終えて、いざ袋を持って行こうとしたそのとき、織姫が不適に笑った。
「ふふん、わたしのグッズを買うとは賢いですね〜
そーです!特別にサインを入れてあげまーす!」
「ええっ!?」
「エンリョすることないです。ちょっちうちわ借りまーす。」
言うが早いか、織姫は団扇を取り出すと、懐に忍ばせていた黒ペンをさらさらと団扇の面に走らせ、あっという間に本人の直筆サイン入り団扇が袋に戻された。
「あ、ありがとうございます…!」
「礼なんかいいでーす。ファンは大切にしませんとね。」
悠然と微笑むと、清水は顔を赤らめて礼をした。
その様子に満足した織姫は微笑むと、さらに自分のペースで話し掛ける。
「そういえば、清水さんはガラス職人ですよね〜」
「え?ええ、そうですが…」
「わたし、そういう芸術的なものにすごく興味がありまーす。
…というわけで…もし清水さんの都合が悪くなければ一度仕事場を見たいでーす。」
この織姫の提案には清水も驚きを隠さず顔に出す。
織姫から見れば芸術に興味を持つ一人としてただ好奇心が働いただけに過ぎないのだが。
「ええ!?そ、そんな…帝劇スタアの織姫さんにお見せするような職場じゃ…」
しかし、彼女の場合清水が言った立場がまず先にくる事が多い。そして、大抵の人はそれに気を使ってしまう。
「なに言ってるですか〜!そんなの関係ないでーす!
わたしが興味あるだけでーす。見ていいんですか、悪いんですか!?それだけで答えるでーす!」
そしてことこういう面での遠慮の特別扱いを織姫は嫌う傾向がある。
再び強い口調で言われた清水は、速い動きで首を縦に二回振る。
「その、あんな所でよろしければいつでも……」
清水の返事に織姫はニッコリと笑うと、三度清水が目を丸く発現をする。
「じゃあ、今から行きまーす。」
「…今から、ですか。」
「そーです。わたし明日は取材の予定が入っていますし、その先もスケジュールが点々としてまーす。
今日が一番いいでーす。」
なにか不都合ありますか?そう付け加えて清水の答えを待つ。
清水はすでに苦笑を浮かべつつも首を横に振る。
「いいえ。では、ご案内します。」
「じゃあ、椿。わたしちょっち出かけてくるでーす。」
「あ、は、はい。」
すっかり会話に取り残されてしまった椿は、そのまま二人を見送ることしか出来なかった。
帝劇から帝鉄を利用して15分ほどの所に、清水の住まいはあった。
緒方のように長屋住まいではなく、一軒家だった。通りに面している部分は駄菓子屋のような雰囲気でビー玉や風鈴などが陳列されている。
「どうぞ、織姫さん。」
開けられた室内への入り口を「お邪魔しま〜す」という言葉とともにくぐると、ごく普通の家屋の作りが目に入った。
「一人暮らしなんですか〜?」
昼だというのに薄暗い室内を見て織姫が呟いた言葉に、清水は戸を閉めながら答える。
「いえ、普段は両親と暮らしているんですが、今は二人とも慰安旅行に行って留守なんです。」
「ふ〜ん、そうなんですかー」
順に靴を脱いで廊下に上がると、清水が突き当たりの部屋を指差した。
「あそこの部屋が、仕事部屋になってます。よろしかったら先にそちらに行ってて下さい。
僕はお茶を入れてきますね。」
言うなり、廊下を少し進んだ所にある部屋へと姿を消す。おそらくその部屋が台所なのだろう。
残された織姫は、言われた通り突き当たりの部屋へと足を進める。
部屋の中はとても一軒家の一室だとは思えないほど別世界だった。工房と表現しても過言ではないだろう。
外へつながる部屋の端には硝子を熱する小さな炉があり、炉と少し離れた所に取り付けられた机には色ガラスの細い棒と透明のガラス棒があった。先端に溶けた後があることを見ると作業途中のようだ。
左の引出しからは作業に使われると思われる工具が中に納まらず顔をのぞかせている。
その工具を近くで見ようと足を踏み出すと、つま先が木箱に触れ、中身がガシャっと音を立てて揺れた。作業の残骸硝子のようだ。
(万華鏡みたいですねー)
色とりどりのガラスの破片を見て、先日アイリスに見せてもらった万華鏡という日本の遊具を思い出す。
「お待たせしました。」
織姫が面白がって破片の箱をガチャガチャ揺らしていると、小さな盆に来客用の湯のみを載せた清水が入ってきた。
「とても一軒家の一部屋とは思えないでーす。」
開口一番の織姫の感想に清水は盆を作業台の上におき、来客用の折りたたみ円台を広げながら答える。
「父の代から使っている部屋なんです。父も僕も硝子職人ですから。」
どうぞ、と設置された円台にお茶を置く。
「どーりで年期が入ってまーす。」
進められるままお茶を口にする。安いなりの味だ。
お茶を飲んで一息ついたところで、清水が突然「あ!」と声を上げた。
「そうだ、織姫さん。よろしかったらこれ貰ってください。」
そう言って清水は作業台から少し離れた所に安置してある飾り箱からガラスで作られた一本の見事な薔薇を織姫へと差し出した。
「ワォ!いいんですか〜?」
「ええ、織姫さんのような方に貰っていただけたらその薔薇も本望でしょう。」
そう口にした清水の表情に、織姫は少しの違和感を覚えた。何となく歯切れが悪い。
薔薇に伸ばしかけた手を引いて、清水を見つめる。
「清水さ…」
「おい、清水!居るか!?」
そのまま疑問を口にしようとすると、玄関から清水を呼ぶ声が飛んできた。
「ちょっと失礼。」
薔薇を一旦飾り箱の上に置くと、織姫を残して清水は玄関へと向かった。残された織姫は薔薇と対峙していた。
見ているうちに、この薔薇は自分が手にしてはいけないような気すらしてきた。まるで持ち主が最初から決まっているかのような―――
「なんだって!?」
突然玄関から清水の声が飛んできた。何かトラブルかと観じた織姫はわずかに開いている部屋の扉に近づき、玄関の会話を拾いやすくした。
「なぁ、行ってやれよ。あいつ待ってんだぜ!?」
「けど…約束を破った僕をあの唯が待ってるなんて…信じられない……」
「バカ野郎!俺は実際話もしてきたんだぞ!間違いねぇ!
あいつは待ってるぞ、お前が来るのを!約束だかなんだか知らねぇが、事実とにかく待ってんだよ!」
「でも、唯はなによりも約束を破られることが嫌いで……」
「お前だって会いたいんだろう!?」
「それは…」
ずっと聞き耳を立てていた織姫はそこまで聞いたところで清水が置いていった硝子薔薇と薔薇が入っていた飾り箱を持って立ち上がった。そして清水の背中から真っ直ぐに声をかけた。
「清水さん!」
「お、織姫さん。」
「あれ?なんで清水ん家に織姫さんがいるんで?」
「今はそんなことどーだっていーです、武田。
それより清水さん!この薔薇は最初から持ち主が決まってるみたいですね。
それを貰うわけにはいきませーん。ですから、これはちゃんと持ち主に渡してくるべきでーす!」
ずいっと硝子薔薇と飾り箱を差し出すと、清水は困惑の色を隠さず出した。
その先にいる武田――ダンディ団所属で、ひょんなことから知り合った花組ファン――は織姫が差し出した硝子薔薇を見てそれが何を意味するかを察したのか、黙って見ている。
「織姫さん、今の話聞いて…」
「聞こえてきただけでーす。
…会いたいのなら、伝えたいことがあるのなら行動しなくちゃダメでーす。
無理にあきらめると後悔するだけですよ。」
「でも…僕は約束を守れなかった。」
「約束約束って一体何を約束したですか〜?」
織姫の質問に、清水は苦虫を噛み潰してもなお笑おうとしているような顔をした。
「帰ってきたら、一緒になろうって…
でも、僕はいろいろあって約束した帰国日よりも一ヶ月も遅く帰ってきたんです。
もちろん真っ直ぐに彼女に家に行きました。けど彼女はそこにいなかったんです。
二人でよく行った場所も方々探しました。けれどどこを探しても…
彼女がどうなったのかは近所の人に聞いてもわからず終いで……」
「それを偶然俺が縄張りの見回り中に見つけたんだよ。
だからこいつに教えてやったのにこの野郎が煮え切らねぇからよぉ!」
「彼女は約束を守れない人がまず第一に嫌いなんだよ。だから僕も…」
「あー!もう!!清水さんは女心がわかってないでーす!!」
再び口論になりそうなところを、織姫の叫びが止めた。
驚いた二人は同時に織姫を見る。
「その人は待ってまーす。あなたがこの薔薇を持って自分の所に帰ってきてくれる日を。」
しっかり清水の両手に薔薇の花と飾り箱を握らせると、織姫は優しく微笑んだ。
「織姫さん…」
「アタックする前にあきらめるなんてナンセンスでーす。
イタリアで生活したならばそんなことわかってるはずでーす。」
>諭すように告げると、玄関の外の方に顔を向かせとんっと軽く押した。
そのときの清水の顔は織姫からは見れなかったが、武田からはしっかり見えた。その顔を見た武田はニヤリと笑った。
「…決まりだな。じゃあ行ってこいや!
唯がいるのは橋一つ渡った所の長屋だ。行きゃすぐにわかる!
帰ってくるまで留守番しててやっからよ。」
「…ありがとう、武田。織姫さん。行ってみるよ!」
「礼なんていいから早く行きやがれ!」
「そーでーす。レディを待たせすぎるのはジェントルマンの恥ですよ〜」
靴を履いた清水は声に出さず、ただ頷くと急ぎ足で道を突き進んでいった。
「やれやれ、ホントに世話の焼ける奴だぜ。」
遠ざかる清水を見つめながら武田がこぼす。しかし、そのぼやきには親しみが込められている。
「ところで武田。なんであなたがここにいるですか?」
「あ?ああ、俺は清水とはちょっとした知り合いでさ。
あいつの相手の唯の事も知ってたし気になってたんすよ。
放っておくのもできやせんしね。」
「へ〜武田、いいところあるですね〜」
「いやいやいや…と、ところで織姫さんはどうしてここにいたんです?」
織姫に誉められた武田は照れ笑いを浮かべながら質問を返す。
「ああ、そんなの簡単でーす。
パパと清水さんが知り合いで、清水さんの仕事に興味があったので仕事風景を見せてもらおうとしたんでーす。」
なるほど、と感心するように頷いた武田の肩をポンッと叩くと、織姫は靴を履き始めた。
「さて。私はそろそろ帰りまーす。武田、留守番ヨロシクでーす。」
「え!?帰っちゃうんですか?」
「ディナーの時間には戻るって言って来ましたからね。そろそろ行かないと間に合いませーん。
それじゃ、武田。チャオ!」
「あ、は、はぁ…」
心細そうに手を振る武田を織姫は背中に受けながら帰路へとつく。
清水宅からしばらく行ったところで、織姫は足を止めた。
そこはつい数分前清水が唯に会うために渡った橋だと思われた。
「アルタイルとベガみたく、年に一回しか橋が架からない川じゃないんですから
思いを伝えるのに戸惑ってはダメですよー。」
誰に言うわけでもなく織姫は呟いた。
うっすらと赤味を増した空を見上げると遠い地にいるあの男のことが頭に浮かんだ。
(離れているとちょっち切ないし不安ですけど、離れないと分からない事もいっぱいあるですね。
…でも、気持ちの行き違いだけはごめんでーす。)
橋を横目に再び歩き始めると、織姫は一つだけ決意した。
次に自分の想い人と会った時には自分の気持ちを素直に伝えることを。
「さーて、帰りましょーか!」
そう口にした織姫の頭上は茜色の空に一番星が輝いていた。
ある夏の日の出来事であった。
END
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