Distance to your heart




窓の外には雪が舞い、普段の喧騒を掻き消す程に幻想的な夜なのに、ラチェットの機嫌は最悪だった。

「あ〜やっと終わったよ〜…」

その一番の原因であるサニーサイドは広い机に山積みになっている書類の最後の一枚に目を通して気の抜けた声を発した。

「まったく……日頃からこまめに目を通していればこんなことにはならないのに。」

ねぎらいの言葉ではなく小言を向けるとサニーサイドはつれないなぁと軽く肩をすくめる。

「まぁ、何とかしてるからいいじゃないか。」
「サニー…あなたがいろいろと忙しいのはわかってるけど、もう少し余裕を持って仕事を片付けてほしいわ。」
「なんだか今日はやけにつっかかるね。」
「あら、そう?気のせいよ。」

言いながら、自分でもいつもより口調がキツいのは自覚している。だがそれを認めてしまうのも癪で手早く必要な書類を抜き取りチェックする。

「これで期日通りに事が進められるわ。じゃあサニー、おやすみなさい。」

簡単な挨拶を残してオーナー室を後にするラチェットの後ろ姿が消える寸前でサニーサイドもおやすみと返して腕組みをしたまま背もたれに体重を預ける。

「ま、これくらいは大目に見てほしいよね。」

後に続いた呟きがラチェットの耳に入っていたら、彼女自慢のナイフが顔すれすれを掠めただろうが幸いにもその事態は訪れず、サニーサイドは書類の山から一枚引っ張り出して口端を軽く上げる。

「さて、これはどうするかな。」


   ◇ ◇ ◇


さっと支配人室の机を片付けたラチェットは身支度を整えて、足早にエレベーターに乗ると軽く息を吐いて目を閉じる。
2月に入り、信長の攻撃で傷ついた紐育の街も確実に復興してきている。喜ばしいことだが、それに伴う激務に正直疲れが滲む。
だが、エレベーターが到着すると同時に顔を上げて表情を引き締める。こんな顔を見られるわけにはいかない。

「あ、ラチェットさん!遅くまでお疲れさまです。」

他の誰より、彼に。そう思うと同時にロビーから聞こえた声に一瞬心臓が跳ねる。

「大河くん……大河くんこそこんな時間までどうしたの?」
「ええと、夜の見回りをしてたんです。」

屈託無く笑う大河の手には微かに雪片が残っている傘があり、今しがたシアターに入ってきた様子だった。

「ラチェットさん、もう帰るのなら送っていきますよ。」

恐らく、まだ灯りがついているから立ち寄ったのだろう。
大河の優しさにラチェットは暖かな気持ちになるが、やんわりと首を振った。

「ありがとう……でも、大丈夫よ。これからちょっと寄るところもあるし。」
「そうですか……じゃあ、気をつけてくださいね。」
「ええ、大河くんもね。また明日…」

ぺこりと頭を下げてシアターを出る大河の顔が一瞬曇ったが、それには気づかないふりをして見送る。
だってこれ以上、彼の負担になりたくない。


   ◇ ◇ ◇


(うーん……)

蒸気熱による除雪作業も追いつかず、薄く雪が積もった道を歩きながら、大河は先ほどのラチェットの顔を思い出してため息をつく。

(なんだろ、言い方がまずかったのかな…)

自分が及ぶ範囲なら、いくらでも彼女の力になりたいのに、最近のラチェットには「大丈夫」だと言われてしまう。

(ラチェットさんも大変なのに……)

もどかしい気分のまま、大河は帰路へとついた。


   ◇ ◇ ◇


「新次郎、おっはろ〜!」
「おはよーだ!」

それから一週間ほど経った朝、シアターに到着すると同時にジェミニとリカリッタが声をかけてきた。

「おはよう、今日は二人とも早いんだね。」
「リカたちだけじゃないぞ、サジータもダイアナもすばるもプラムもあんりもみんないるぞ!」
「そうなの?今日ってなんかあったっけ…」

朝食会でもなく、舞台稽古もないのに早朝から全員集合するのは珍しい。大河が首を傾げると、ジェミニとリカリッタは顔を見合わせてニンマリと笑う。

「ボクたち、新次郎が来たらサニーさんの所に行くようにって伝言を頼まれてたんだ。」
「たしかに伝えたぞ!」
「あ、うん。わかった、ありがとう。」

返事はしたものの、その笑みの意味を聞く前に二人は足早に楽屋の方へと進んでしまった。
疑問に思いつつも屋上のオーナー室に向かうとサニーサイドが椅子に座って待っていた。

「やぁ、大河くん来たね。」
「サニーさん、おはようございます。」
「おはよう。で、来た早々だけど港までお客さんを迎えに行ってほしいんだよね。ラチェットが先に行ってるから、詳しいことは彼女に聞いてね。」
「は、はい…わかりました。」

挨拶もそこそこに早口で用件を告げるサニーサイドを意外に思いながらも、その表情はお得意のサプライズをしかける顔だったので大河はとりあえず素直に頷いた。こういうときは深読みしても効果が薄いことがようやくわかってきた。

「先方には君たちが行くって言ってあるから、シアターまで案内よろしくね。それじゃあ、イッテラッシャイ!」


   ◇ ◇ ◇


「……じゃあ、大河くんも誰が来るか聞かされてないわけね。」
「すみません、てっきりラチェットさんが知ってるものだと…」
「大河くんが謝ることじゃないわ。まったく…サニーにも困ったものね。」

両肘を抱えるように腕を組むラチェットのぼやきに、大河も無言で頷く。

「……まぁ、どの船で来るかは聞いているから大体の予想はつくわ。」

ちらりと腕時計を確認するラチェットの横顔がどことなく晴れやかに見える。

「どこからの船なんですか?」
「日本よ。」

だがそこには触れず、当たり前の疑問を口にする。
返ってきたラチェットの簡潔な答えに、大河の心臓が軽く跳ねた。

「それって……もしかして……」
「たぶんね。」

なるほど、だからサニーさんは教えてくれなかったのか、と納得すると同時に大河は目に見えてそわそわしだした。

「大河くん、気持ちはわかるけど少し落ち着かないと。」

くすくすと笑い声混じりのラチェットに大河はうっと言葉を詰める。

「そ、そうですよね……ぼくももう星組の隊長なんだからしっかりしないと!」

両手で拳を握って自分に言い聞かせるが、心臓はなかなか静かにならない。
港に背を向けて数回深呼吸をすると、ラチェットがとんとんと肩を叩いてきた。そして振り向いたときには先ほどまでの努力は水泡と化した。
そうだったらいいなという予感。そして、それは的中した。

「お二人とも紐育へようこそ。」

ラチェットが優美な微笑みを浮かべると、こちらに向かって歩く二人も笑顔で応える。

「短い間だけど、お世話になるわね。」

風に揺れる金髪に見え隠れする緑の瞳が柔らかく和む。そして

「二人とも久しぶり。元気だったかい?」

その隣で優しげな笑顔と共に聞かれて大河は思わず叫ぶ。

「一郎叔父!マリアさん!お久しぶりです!!」


   ◇ ◇ ◇


「迎えって言ってたから、てっきり加山が来るかと思ったよ。」

カウンターに出されたお茶を手に持ちながら大神は呟いた。
ラチェットの車でミッドタウンまで連れてこられた大神とマリアはROMANDOの前で降ろされた。出迎えた店主が言うに、時間になったら俺がシアターに案内するよう頼まれているとのことだ。

「意外で良かっただろう?こっちも最初に連絡を受けたときは驚いたぞぉ〜二人旅なんて。」

その店主こと加山雄一は軽い口調で二人を交互に見る。

「本来なら、花小路伯爵も同行なさるはずだったのですが……たまには自分無しで行くといいって…」

困ったように眉根を寄せるマリアに加山はうんうんと頷いた。

「あの方もそういうのが好きですからねぇ…ま、それ以外にもうついて行かなくても大丈夫だと判断されたんでしょう。」
「その辺りは米田さんと似てるよな。任せられた以上、しっかりと務めないとな。」
「はい、司令。」

生真面目に頷き合う二人に加山は軽く肩をすくめた。相変わらずだ。

「……さて、じゃあホテルに案内しよう。そろそろ向かえば丁度よくシアターに着けるだろう。」
「それはありがたいが……店の方は大丈夫なのか?」
「心配ご無用!ちゃんと“観劇日和のため臨時休日”って札を出すからな。」

あまりに堂々とした物言いに思わず目を合わせて苦笑する。加山はすっかり紐育に馴染んでいるようだ。


   ◇ ◇ ◇


「じゃあ、みんなは先に聞いてたんだね。」
「はい、でもサニーサイドさまから聞いたのが昨日だったから急いで準備しましたよ〜」
「でもタイガー自慢の叔父さんに会うのが楽しみねぇん。」

屋上のサロンのテーブルに料理を並べながらプラムは上機嫌だ。そのプラムに頷いて杏里が続ける。

「大河さんより頼りになりそうですものね。」

いつもの調子で憎まれ口をついた杏里だったが、大河の反応が無い。不思議に思って振り返ると大河は真面目な顔で頷いていた。

「うん、一郎叔父は本当に頼りになるよ。ぼくも見習わなきゃ。」

てっきりムキになって反論をすると思っていた杏里はうろたえて視線を泳がせる。

「た、大河さんもちょっとは…ほんとにちょっとは!頼りになるようになってきてますよ…」
「ん?杏里くん今何か言った?」
「な、なんでもありませんっ」

ぷいっと顔を背けてプラムに駆け寄る姿に大河は首を傾げると、同時に針先が胸に刺さるような感覚を覚えた。

(なんだろう……杏里くんは別に変なこと言ってないよね。)
「タイガー、ここはもう大丈夫だから下に降りてなさいな。そろそろ来る時間だからお迎えしなくちゃ!」

だが、その答えに行き着く前に杏里の頭を撫でているプラムに声をかけられ我に返って時計を確認すると言うとおりだった。

「わっ本当だ!じゃあ、ぼくはそろそろ行きますね。」
「行ってらっしゃ〜い!」
「後のことは任せてください。」

手を振り、大河がエレベーターに乗るのを見届けてからプラムはたまらず苦笑いをこぼす。

「タイガーは充分魅力的なのにね、杏里。」
「プ、プラム!なに言って……ま、まぁたまになら、ちょっとかっこいいときもあるけど…」

自分の魅力は、なかなか自身ではわからないものなのかもしれない。


   ◇ ◇ ◇


「あー!」

帝国華撃団の総司令と花組隊員の一人を歓迎して行われた夕食会に叫び声が走る。

「どうした、ジェミニ……って新次郎!」

声の主であるジェミニの視線の先を見て駆け寄ったサジータも叫ぶ。
他の面々もそちらを見ると、真っ赤な顔をした大河がこてんとテーブルに潰れる瞬間だった。

「あー…やっちまった。」
「新次郎、何飲んだの?」
「……ウォッカだな。」

ぞろぞろと大河が居るテーブルに集まった一人、昴が琥珀色の液体がまだなみなみと残るグラスを手にとって呟くと集まった一同の顔が納得と語った。

「大河さん、あまりお酒が得意じゃないですから…」
「しんじろー、ぐっすりだな。」
「マリアさんはお酒強いんですね。」

その様子を一つ離れたテーブルから眺めていた大神は同席していた杏里の声に隣を見ると、同じ琥珀色の液体を飲んで顔色一つ変えないマリアが苦笑いをしていた。

「マリアは花組の中でも一番強いからね。」
「司令もお強いじゃないですか。」
「まぁ、米田さんたちに鍛えられたしね…新次郎も少しずつ慣れていけば大丈夫なはずさ。」
「うーん…大河くんはそれでも弱そうな気がするねぇ。」

サニーサイドの呟きに、大神はそれを否定できない出来事を思い出した。

「……そういえば、子供のころに甘酒で酔ってたこともあったな。」
「甘酒って……たしか酒粕でつくる飲み物よね?」
「それって酔わないものなの?」

ラチェット、プラムの怪訝そうな声に大神はあまりね、と一言添えて大神は再び大河の方を見た。

「その時もあんな感じでぱたって寝てたよ。」

依然、大河の周りに星組隊員たちがついているその光景に大神は安心する。
新次郎はちゃんと紐育になじんだようだ。

「……で、全然起きなかったんだ。」


   ◇ ◇ ◇


「すみません、手伝ってもらって…」
「いや、いいんだよ。」

すやすやと赤みの薄れた顔で眠る大河を背負いなおしながら人の良い笑みを浮かべる大神にラチェットは大河の部屋の鍵を開けながら心の中でもう一度詫びた。
大神のしばらく起きなかったという発言の通り、大河は夕食会が終わっても眠ったままだった。
さてどうしよう、というところで大神が家まで連れていくと立候補したので案内役を誰かという事になり、星組隊員全員の推薦でラチェットが選ばれた。

「へぇ…なんだか俺の部屋と似た作りなんだな。」

一歩入り、辺りを軽く見渡した大神は軽く驚きながらも大河をベッドに横たわらせた。

「最初はあなたが来ると思っていたから、過ごしやすいようになるべく似せたみたいよ。」
「そ、そうか……」
「初めはどうなることかと思ったけど、今はこれで良かったと…心から思うわ。」
「……そうか。」

無防備に眠る大河から、大神に視線を移すと穏やかな笑みにラチェットの瞳が揺らぎそうになる。

「……少しいいかな。」

すっと外を指す大神にラチェットは黙って頷き、部屋を出る大神に続く。
パタンとドアが閉まる音と同時に、大河の指先がぴくりと動いた。

「う…ん……」

続いてゆっくりと瞼を動かすと徐々に意識がはっきりしてくる。

「……ぼくの部屋?」

緩慢な動きで上半身を起こすと、くらりと世界が回る。

(ええと……シアターで一郎叔父とマリアさんの歓迎会をしていて…テーブルにあった飲み物を一口飲んで…)

そこまで思い出すと同時に大河は何がどうなったか瞬時に理解し、表情が凍りつく。
その一杯で自分は酔いつぶれ、ここに運ばれてきたのか。

(誰が運んでくれたんだろう…)

自分に対する深いため息を一つついて、何となく窓の外に目を向けるとその疑問は氷解した。

「一郎叔父…!」

夜でも見間違えるはずの無い背中をよく見ようと、身を乗り出しかけた大河だったが次の瞬間にはその動きは止まっていた。

「ラチェットさん?」

ここからでも二人が何か話しているということはわかる。大神は背中を向けているが、ラチェットはその向かいにいるため街灯に仄かに照らされた表情も見える。

「あ……」

大神と話すラチェットの笑みは今までに見たことが無い、無防備で安心したものだった。
何も言えないままベッドに身体を沈めると、大河は痛感した事実に瞳を曇らせる。

(……ぼくがまだまだ頼りないから、ラチェットさんは無理をしちゃうんだ…)

頼もしい叔父とは程遠い自分。
あの戦いを通じて少しは成長したつもりだったが、強く瞳を閉じて吹き出しそうな感情を抑える。
ぼくでは、あなたの本当の力にはなれませんか?


   ◇ ◇ ◇


「……最近、自分の力不足を痛感するんです。」

話を切り出したのはラチェットからだった。夕食会のときとは違う苛立ちを前に出した瞳が伏せられる。

「大河くんは私の期待以上に頑張ってくれているのに、ついまだ頼ろうとしてしまう自分がいるんです……こんなこと、今までは無かったのに…」

徐々に己を責める口調が激しくなるラチェットの話を大神は黙って聞く。

「もっと…強くなるにはどうしたらいいのかしら。」

最後は独り言のように呟くと、二人の間に沈黙が宿る。

「甘えてもいいんじゃないかな。」

今度は大神が口を開く。驚いて顔を上げるラチェットに大神は軽く笑顔を浮かべてから表情を引き締める。

「新次郎は君が思っているほど柔じゃない。けど、大事な人がそんな風に悩んで我慢していたら苦しくなると思うよ。」

大神の言葉に、ラチェットは目を見開いたまま動けなかった。
たしかに、彼に心配かけまいと大丈夫かと聞かれたときに強がってしまっていたが、彼はその度に痛そうな顔をしていた。あなたが辛いわけじゃないのに、と逆に励ましたくもなったが、本当に辛かったのだろうか。

「たぶん…空回りも多くて、まだまだ危なっかしいところもあるだろうけど、もっと頼ってやってほしい。」

それは大河を推薦した総司令、というよりは叔父としての言葉だと理解したラチェットは見開いた瞳からゆっくりと微笑んだ。
その笑顔は紛れもなく新次郎に向けられたもので、帝都で見たときと明らかに違う愛おしさが滲み出ているその笑顔に、大神は安心した。
これなら、大丈夫だろう。


   ◇ ◇ ◇


沈んだ心を現実に呼び覚ましたのは意外にも寒さだった。
くしゃみを一つして大河は重い動きで顔を上げ、窓の外を見るが当然ラチェットも大神もいない。
立ち上がり、コツンと窓に額を預けると外の冷気が伝わってくる。

(……少し、歩こうかな。)

どうせ眠れそうもない。大河が表に出ると、冷たい風が全身を包む。
だが、その冷気をもってしても大河の気持ちは冴えなかった。

(ぼくは……)

もやもやしたものを抱えたまま、大河の足は臨海公園に向かっていた。何となく、海が見たい気分だった。
一人で波音を聞きながら考えようと海沿いの柵に向かうと、先客がいた。見覚えのある長身の後ろ姿に大河は思わず声をかける。

「マリアさん……?」

突然名を呼ばれ、マリアは驚いて大河の方を見る。

「新次郎…こんな時間にどうしたの?」
「ええと……ちょっと眠れなくて…あ、夕食会ではすみませんでした!」

自分がいち早く酔いつぶれてしまったことを思い出した大河はマリアに頭を下げる。

「いいのよ。慣れないのにストレートで飲めば誰だってそうなるわ。」
「はい……」

情けない気分に拍車がかかったが、マリアの穏やかな口振りに大河は顔を上げていつもの口調を意識して訊ねた。

「マリアさんこそ、こんな時間にどうしたんですか?」
「……少し、懐かしくなってね。帝都に行く前、少しだけ紐育にいたころがあったから散歩をしていたの。」

そう、こんな季節だった。破滅を望んでいた愚かな自分があやめとの出会いによって変わったのは。

「そうだったんですか…」

その口振りから大河は何となくそれ以上聞かない方がいい気がして、短い返事に留める。
一方、マリアの方は港やシアターで見たときとは雰囲気が違う大河に眉をひそめた。

「……そっちこそ、何かあったの?」
「えっ?」

ドキッと跳ねる心臓が命じるままマリアを顔を見上げるとただ真っ直ぐに問いかけてくる翠の瞳にぶつかる。
ああ、この人も強い人だ。

「ぼくは…一郎叔父と違って、まだまだ頼りないですよね………」

俯き、あがらえぬまま呟いてから即座に後悔する。言うべきではなかった。
慌てて顔を上げると翠の瞳は怪訝そうな色を強くしていた。

「す、すみません!変なこと言っちゃって……その…」
「自分に自信を無くしてはダメよ。」

どう収めればいいか纏まらない大河にピシャリと告げる。
すると、不安げに揺れる黒い瞳がさらに見つめてきたので視線をそらさせずに真っ直ぐ合わせたまま言葉を繋ぐ。

「あなたは怠けていたわけでなく、自分に出来ることを常に精一杯やってきたんでしょう?だったらそんなことを言っては駄目。それはあなたを信じている人全てを裏切ることになる。」

マリアの言葉に大河は頭を殴られるよりも強い衝撃を受けた。
あの戦いのとき、みんなはこんなにも未熟な自分を信じてくれた。ラチェットもその命を懸けて戦ってくれた。
それらがあるから今があるのに、それを一瞬でも揺らがせてしまえば支えられるものも支えられなくなってしまう。そんなのは嫌だ。

「はい!」

気を引き締めて背筋を伸ばした大河の様子にマリアはよろしい。と頷く。

「……それじゃあ、私はそろそろ行くわね。」
「ありがとうございます、マリアさん。」
「シアターに行ってみなさい。」

去り際の一言で大河が走ってそこに向かう音を背中で聞きながらマリアは最後の言葉を紡ぐ。

「今まで弱さを見せられる人があまりいなかった人はなかなか一歩踏み出せないものだから、あと少し待ってあげてね。」

付け加えられた言葉は大河には届けられず、夜の海に溶けた。


   ◇ ◇ ◇


「おかえり、マリア。」

宿泊するホテルに戻ると、一足先に戻っていた大神に出迎えられた。

「今、新次郎と会いましたよ。」
「え?」
「眠れなくて散歩に出たそうです。ラチェットがシアターに戻ったと聞いていたのでシアターに行くように勧めておきました。」

マリアの推察が間違っていないのを知っている大神はああ、と納得してマリアの肩を叩いた。

「そうか…お疲れ様。」
「少しお節介だとは思ったのですが……」
「いや、それくらいでちょうどいいと思うよ…俺も人のことは言えないけどね。」
「ふふっ…否定しません。」

並んでソファーに座り、テーブルにあるティーセットで紅茶を煎れながら軽やかに笑うマリアに大神はただ苦笑いをした。

「新次郎を送ったあとにラチェットと少し話をしたんだけど…」

紅茶を受け取り、一口飲んでマリアもティーカップを手にするのを待ってから続きを告げる。

「聞きながら、マリアが風邪で倒れたときのことを思い出したよ。」

瞳をぱちはちと瞬かせるマリアだったが、すぐにそんなこともありましたね。と自分も紅茶に口を付けた。
ある公演の終わりごろ、マリアは体調を崩しかけていたが、舞台に穴を開ける訳にはいかない。と無理を押して出演していたら、楽日が終わると同時に高い熱が出た。

「何度も支配人として、個人として忠告したのにあのときのマリアは頑として譲らなかったよね。」
「…少し、過信しすぎました。」

次に目が覚めたときは自分のベッドで、一日中医療ポットに入っていたため熱は引いていたが、看病しててくれた大神にものすごく怒られた。

「あの時の司令は正直怖かったです。でも……」

怒られたあとに心底安心した様子を見せられては素直になるしかなかった。

「本当は少し嬉しかったと言ったらまた怒りますか?」

ごめんなさいとありがとう。
マリアの告白に大神はうーん、としばし考えてから首を振った。

「怒る、のとは違うけど…もう無理はしないって約束はしてくれ。」
「心掛けています。そういう司令こそ、いろいろ抱えすぎたり無理しないようにしてくださいね。」
「心掛けておくよ。」

そこまで一気に言い合って、お互いに笑みを零す。

「……少なくとも、あなたの前では無理はしないことにします。」

言いながら、距離を縮めて大神の肩にもたれ掛かると、優しく肩を抱かれた。

「うん、そうしてくれ…俺も君の前では無理はしないから。」
「約束ですか?」
「約束だ。」

帝劇ではなかなか訪れない二人きりの静かな夜を演出するかのように、外には雪が舞い始めた。


   ◇ ◇ ◇


傘を持って出なかったため、雪が直接肌や服に当たるが、そんなことには構わず街を走り抜ける。
シアターの前まで来たところで立ち止まってビルを見上げると、まだ灯りが見られるのを確認した大河は急いで屋上へと向かう。
灯りがついていたのは支配人室。大河が逸る心を懸命に抑えてドアを静かに開けると、ラチェットが机にうつ伏せになって眠っていた。

「……ラチェットさん。」

近寄り、静かに声をかけると、わずかな微睡みの声の一拍後ラチェットはガバッと顔を上げた。

「た、大河くん?!どうしてここに……」
「シアターの前まできたら、まだ灯りがついていたので…」
「そ、そうだったの……私ったら居眠りしてしまったのね。」

軽く髪を整えながらラチェットは慌てて身を起こすが、あまりに急だっために立ち眩みがおこる。

「あ……」
「ラチェットさん!」

とっさに大河が動き抱きとめたので、事なきを得たがラチェットは大河に全体重をかける形になった。

「ご、ごめんなさい…」

すぐに足に力を入れて離れようとするラチェットだったが、その前に大河が腕をぐっと掴む。

「大河くん?」

そのまま数歩歩き、ソファーに座らせられる。

「ラチェットさん、最近あまり寝てないですよね。」

腕を掴まれたまま、真っ直ぐに射抜かれてラチェットは肩が震えそうになったのを必死で抑える。

「ど、どうしてそう思うの?」
「わかりますよ……心配で、いつも見てましたから。」
「大河くん……」

ふっと瞳を伏せて泣きそうな表情を見せる大河にラチェットの表面だけの笑みが消える。

「今、毛布を持ってきますから、少し寝てください。」

言い終わる前に大河はラチェットの腕から手を離し、衣装部屋にある毛布を取りに行くべく駆け出した。一方、ラチェットは瞬きもできず呆然としていた。ゆっくりとした動きで大河が触れていた部分に触れる。
彼がそういう態度を取ったことは無かったし、こんな風に踏み込んで人に心配されたのは初めてだった。

「お待たせしました!ラチェットさんが寝ている間はぼくがここにいますから、安心してください。」
「でも、それじゃあ大河くんが…」

毛布を受け取りながらも渋ると、大河はラチェットを安心させるためににっこりと笑った。

「ぼくは大丈夫です。さっきたくさん寝ましたから。」

その堂々とした言いっぷりにラチェットは思わず吹き出し、観念した。

「ふふっ………じゃあ、お言葉に甘えて少し横にならせてもらうわね。」
「はい。」
「大河くん…ごめんなさいね。」

靴を脱いで毛布にくるまり、ソファーに体を沈めながらラチェットはすぐ横のソファーに腰掛けた大河に呟く。

「えっ…?」
「心配かけて…」
「そんな…いいんです。ラチェットさんが元気になってくれれば、それで。」
「…………」
「ぼくはまだまだ頼りないかもしれませんが、がんばりますからあまり無理はしないでください。」

ああ、どうして今まで気付かなかったのだろう。彼はこんなにも自分の近くにあろうとしてくれていたのに。

「…わかったわ。」

強くあろうとする自分も弱い自分も彼はきちんと受け入れてくれる。
ラチェットの無防備な微笑みに、大河も嬉しくなる。
やっと、笑ってくれた。

「ねぇ、大河くん……私のお願い、聞いてくれる?」
「もちろんです!ぼくに出来ることならなんだって!」

ハキハキとした大河の返事に、ラチェットはすっと右手を上に上げる。

「私ね、大河くんと行きたい場所があるの。私の別荘なんだけど、ずっと行けなくて……大河くんさえ良ければ今度一緒に行ってもらえるかしら?」

ラチェットの質問に大河は立ち上がり、伸ばされた手を握ってすぐ傍に膝をつく。

「…もちろんですよ。喜んでご一緒します。」
「それとね、もう一つ…私が眠るまででいいからこのまま手を握っていてもらえる?」
「……はい。」

握る手に少し力をこめて、大河はこの上なく幸せそうに笑った。
この笑顔が自分にのみ向けられている。なんて贅沢なのだろう。

「ありがとう、大河くん。」

なんて幸せなんだろう。手のひらから伝わるぬくもりに、ラチェットは静かに瞳を閉じる。

「……ラチェットさん?」

規則正しく寝息を立てたラチェットに先ほどと同じくらいの音量で声をかけるが、彼女は起きなかった。手は繋いだまま、大河は腰を下ろし正座状態になる。

「おやすみなさい、ラチェットさん。」

これからも、もっとあなたの心に近づけますように。
互いの想いを包み、紐育の夜は更けていく。



    END

書棚へ戻る