Chapter1-Hidden stage- 花の道、花の夢




「……そういう訳で、出発は明朝になるから今日泊まる部屋に案内しよう。
 さくらくん、頼めるかい?」
「はい、任せてください。」

頷くさくらが扉に向かって一歩踏み出したその時、ノックの音と同時に勢いよく扉が開いた。

「隊長、さくらいるか?!」
「わひゃあっ!」

突然の事に跳ね上がった心臓を抑えながら、大河はやってきた女性に目を合わす。
やってきた女性も見慣れない大河の存在に目を瞬かせる。

「カンナ、急いでいても返事は待たないとノックの意味が無いわ。」

やや呆れた口調と共に次いで顔を見せた最初の女性よりはやや低いが、長身と言って差し支えない女性も大河に気づいて声を発する。

「支配人、もしかしてこの人が…」
「ああ、紐育に行ってもらう大河新次郎少尉だ。
 この二人はカンナとマリア。二人とも花組の隊員だよ。」
「は、はじめまして!大河新次郎です。」

大神に目で促された大河は二人に向けて深々と礼をする。それを受けて二人はそれぞれ笑みを見せた。

「お、いい挨拶だな…気に入ったぜ。あたいは桐島カンナ。よろしくな!」
「マリア・タチバナです。よろしく、大河少尉。」

互いの自己紹介が終わったのを見計らい、大神は話の筋を戻すべく今度はカンナを見つめた。

「…で、カンナはさくらくんを呼びに来たのかい?」
「あ!そうだった!さくら、もう稽古始まるぜ!」
「えっもうそんな時間なんですか!?」
「江戸川先生、待ってるぜ。あのまま放っておいたら踊り出しちまう。」
「大変、すぐに行かないと…ええっと……」

いつの間にか迫っていた予定と、頼みを引き受けた責任感の板挟みで目が泳ぐさくらにマリアが助け船を出す。

「さくら、後のことは私が引き受けるわ。」
「すいません、マリアさんよろしくお願いします!じゃあ、あたしはこれで失礼します。」
「ああ、稽古頑張ってね。」
「はい!」

一礼したさくらは先に廊下へ出ていたカンナを追いかけるように支配人室を後にした。

「では、大河少尉はこちらへ。」

小さな嵐を目の当たりにして呆然としかけた大河をマリアの声が引き戻す。

「あ、はい!では、失礼します。」

大神に軽く礼をして扉の向こうへ歩み出すマリアを大河も一礼して追いかける。
残された部屋の主は訪れた静かな時間にふぅ、と軽く息を吐いた。





「紐育かぁ……」
「やっぱり、驚いたみたいね。」

誰に言うでもなく自然と零れた言葉に前を歩き出したマリアが返答してきたので、付いて歩きながら大河は頷いた。

「はい…てっきり、帝国華撃団に配属されると思ってたので……」
「まぁ、そういう風に伝えていたからね。
 先方にも……」
「えっ?」
「いいえ、なんでもないわ。」

言いかけた言葉を途中で切ったマリアは、そのまま歩き続ける。

「……あの、タチバナさん…」

黙々と階段を上がる背に向かって大河は遠慮がちに声を向ける。
普通に歩いているはずなのにどこか隙を感じさせないその姿に、花組が魔と戦う組織なのだと改めて感じる。

「マリアでいいわ。」

だが返ってきた予想よりも柔らかい声音に大河はまたさらに驚いたが、それをきっかけに肩の力を少し抜くことができた。

「あ、はい…あの、マリアさんは紐育がどんな所かご存知なんですか?」
「………そうね、何度か行ったことはあるわ。
 とにかく様々な人種が集まる大都市よ。帝都とはまた違う…摩天楼という形容はあの都市のためにあるわね。」
「まてんろう……なんだかすごそうですね…」
「……………」

足を止めて、マリアは大河の顔を見つめた。意外に少しの感心が混ざった目線に、大河は首を傾げる。

「えっと…ぼく、何かおかしなこと言いましたか?」
「いいえ…そんなこと無いわ。さぁ、この部屋よ。」

階段を上がった正面の廊下の突き当たりにある部屋の一室のドアノブをひねる。
開かれた室内は、空き部屋のようで布団と卓袱台が立てかけてあるだけで簡素そのものだった。

「とりあえず、着替えた方がいいわね。劇場で軍服は目立つわ。」
「はい、わかりました。」
「じゃあ、私は行くわね。夕食の時間は6時だから、それまでは自由にしてるといいわ。」
「ありがとうございます。」

ドアを閉めるマリアに、大河はぺこりと頭を下げる。
一人になった大河は改めて室内に視線を巡らせた。

「えっと……ぼくの荷物は…………あ、あった。」

卓袱台に寄り添わせるように置いてあった荷物の口紐を解いて中から袴を取り出し、慣れた手つきでそれに着替えると代わりに軍服を荷物に収める。

「…うん、これでよしっと……でも、これからどうしよう。
 自由にしてていいって、劇場の中を見てもいいってことなのかな。」

このまま部屋にいては手持ち無沙汰になるのは目に見えている。
とりあえずの行動として大河は廊下へと踏み出すことにした。

「きゃあっ」

その一歩に続いて甲高い子供の声が耳朶を叩く。
驚いた大河が声の方へ顔を向けると、そこにはクマのぬいぐるみを抱えた異国の少女が目を大きくして自分を見上げていた。

「…だあれ?」
「ぼく?ぼくは大河新次郎だけど…」

問われるまま答えると、少女は口の中で小さく名前を繰り返えした後に合点がいったように笑顔を見せた。

「あ!もしかしてお兄ちゃんの親戚で紐育に行く人?」
「う、うん。そうだよ。君は…」
「イリス・シャトーブリアン。みんなアイリスって呼ぶよ!この子はクマのジャンポール。
 仲良くしてね、えっと…新兄ちゃん!」
「よろしく、アイリス。ジャンポールも。」

アイリスの目線に合わせるため、膝をついて挨拶をする大河に、アイリスはにっこりと破顔する。

「それで、新兄ちゃんはなにしてたの?」
「あ、うん…夕食の時間まで自由にしてていいってマリアさんが言ってくれたから
 劇場の中を見学しようかな〜って思って…」
「だったら、アイリスが案内してあげる!」
「えっ……いいのかい?」
「うん!アイリスにまっかせて!」
「じゃあ…お願いしようかな。」

大河が柔らかく微笑むと、アイリスも無邪気に笑ってジャンポールに回していた右手を伸ばして大河のそれとつなげる。

「じゃあ、最初はこっち!」

それからアイリスは実に楽しそうに、また得意げに大河に帝劇内を案内した。
途中、書庫で資料を探すマリアや食堂で遅い昼食というには少々多い食事量を平らげるカンナと話したり、舞台袖からさくらの稽古を垣間見たりと劇場自体物珍しい大河は目を輝かせながら各所を見学していった。
また、新たな花組隊員とも顔を合わせた。
音楽室でピアノを弾いていたソレッタ・織姫の独特な日本語に少々面食らい。

「ふぅん、あなたが…ま、せいぜいがんばることですね〜」

地下のプールで水練をしていたレニ・ミルヒシュトラーセと名乗った隊員は一瞬男の子かと見間違える表情で

「よろしく、大河新次郎。ボクのことはレニでいい。」

と挨拶を交わした。アイリスいわく笑うととってもかわいいらしいが、明日の朝までの僅かな間に見れるだろうか。
最後に中庭で家庭菜園に精を出している李紅蘭に声をかけると朗らかな笑顔で返してくれた。

「よろしゅうな、大河はん。ウチのことは紅蘭でええよ。」

でも、目上の方だからと紅蘭さんと呼ぶ大河にアイリスと二人で律儀なところは叔父と同じだと目を合わせる。

「どうかしたんですか?」
「ううん、なんでもあらへんよ。」
「じゃあ、アイリスたちは行くね。またね、紅蘭!」

手をふって中庭を後にするとアイリスと大河はまた手を繋いで廊下を進む。
改めて握る小さな手と背中に、大河は先ほどのマリアの背に感じた戦う組織という認識をもう一度考える。花組は―――

「……アイリス。」
「なぁに?」
「アイリスは女優さんなんだよね?」
「うん、アイリスは女優だよ。」
「…アイリスも、戦っているの?」

大河の言わんとしたことを肌で感じ取ったのか、アイリスは足を止めてすっと真剣な瞳を見せる。
その眼差しの強さに大河ははっと目を見張る。

「…うん。アイリスも花組の仲間だもん。だから、アイリスも大切なものやみんなを守るために戦うの。」
「大切なもの……」

アイリスの言葉を反復し、大河は昔大神から聞いた言葉を記憶から引っ張り出す。
一郎叔父は、ここにいると守りたいものが見えてくると言っていた。

(そうか、華撃団の戦いは常に…守るための戦いなんだ。)

「新兄ちゃん、どうかしたの?」

黙った大河を不思議に思ったのか、首を傾げるアイリスに大河は笑みを見せた。

「ううん、なんでもないよ。すごいんだね、アイリスは。」
「えへへ…そう?」

照れを隠さずに笑うアイリスに、大河も笑顔のまま頷く。

「うん。ありがとう、アイリス。」
「?…んと、よくわからないけど、どういたしまして!
 新兄ちゃん、他になにかご用ある?」
「ううん、特に…あ、一郎叔父さえよければ少し話がしたいかな。」
「じゃあ、お兄ちゃんも誘っておやつにしようよ!」

アイリスはとことん大河に付き合うことに決めたらしい。
提案したアイリスは大河の返事を聞く前に駆け出して支配人室の扉を叩く。
大河が追いつく頃には大神が廊下に姿を表していた。

「ああ、新次郎着替えたんだね。」
「は、はい。マリアさんが劇場で軍服は目立つと言ったので…」
「じゃあお兄ちゃん、サロンで待ってて。アイリスお菓子持ってくる!」
「ああ、わかった。あったかい紅茶でいいのかな。」
「うん!よろしくね〜!」

駆けていくアイリスの背を見送ると、大神は大河へと向き直る。

「じゃあサロンで待とうか。」





「…おいしい。」

それまでも数えるほどしか紅茶を口にしていない大河だが、こんなに紅茶の味を感じたのは初めてだった。

「紅茶ってこんなにおいしいものだったんですね!」
「そう言ってもらえると、俺も煎れた甲斐があるよ。」

言いながら、大神は心の中ですみれに感謝の言葉を浮かべた。そう言ってもらえるのも彼女直伝の技があってこそだ。
彼女が居た頃と変わらず、サロンにはいつでもお茶ができるように一式が揃えられている。無いのは茶菓子だけで、これはその時々で各人が用意する。

「このクッキーね、アイリスのパパとママが送ってくれたの!」

そう言って渡してくれた焼き菓子もとても美味しかった。
大神も一つ口にして頷く。

「おいしいよ、アイリス。今度手紙を出すときにお礼を言っておいてもらえるかな。」
「うん、いいよ!」
「あ、そうだ手紙…!」

大神とアイリスの会話を聞いていた大河はティーカップを持ったまま思い出したように口を開く。

「手紙がどうかしたのかい?」
「いえ、母さんに東京に行くって手紙を書いたけど、紐育に行くならまた書かなきゃと…」
「ああ、そうか…ちょっと待ってろ。」

首を傾げた大神だったが、大河の言葉に頷くと立ち上がりサロンを後にする。
それに今度は大河が首を傾げると、アイリスがお兄ちゃんのお部屋はサロンのすぐ近くなのと補足した。

「あったあった。書くならこれを使ってくれ。」

程なくして戻ってきた大神に手渡されたのは、特に目立った装飾の無い無地の便箋だった。
これを取りに自室に向かったと納得した大河は、殆ど使われた形跡の無い手紙一式に自身と母のやり取りの中にあった話題を思い出した。

「ありがとうございます。
 …そういえば、母さんが一郎叔父はめったに返事をくれないとぼやいてましたよ。」
「えー…お兄ちゃん、お手紙もらったらちゃんとお返事しなきゃダメだよ。」
「ははは…うん、そのうち顔も見せなきゃな。」

思わぬところで指摘を受けた大神はただただ苦笑いを浮かべる。
そんな叔父の顔を見て大河はこのことも手紙に書かなきゃ、と密かに思った。





「……うん、これでよしっと。後は明日の朝に一郎叔父に預ければいいんだな。」

しっかりと封をして手紙を荷物の中に潜らせると大河は軽く伸びをする。

「夕飯もおいしかったし、みんないい人だし…いいところだな。」

たった一日だったが、帝劇の空気は居心地のいいものだった。

「…まだ消灯まで時間もあるし、もう一回りしてこようかな。」

大神から聞いた出発時刻は夜明け頃になるから、朝方にのんびりしている時間は無いと判断した大河は扉を開けて外に出る。

「あれ…紅蘭さん?」

廊下に出た大河の目に最初に映ったのは緑色のつなぎを着て積み上げた木箱を両手で抱えている小柄な背だった。
ゆっくりと振り向いた紅蘭はまだ器用にバランスを保っていたが、上段の箱は油断すると滑り落ちそうだ。

「……あ、大河はん。」
「上の木箱、持ちますよ。それじゃあ前が見えないですよ?」

見かねた大河は返事を聞く前に上段の木箱を自分の手に収める。
視界が広がった紅蘭は軽くなった荷物を持ち直すと隣に立つ大河に笑いかけた。

「おおきに、大河はん。」
「どこかに運ぶんですか?ぼくでよければお手伝いしますよ。」

大河の申し出に紅蘭は一瞬考えるように目を伏せたが、すぐに顔を上げて返答する。

「せやな…ほんなら、お願いしようかな。そのままウチについて来てな。」
「はい、わかりました。」




「これは……」

目の前にそびえ立つ機体を大河はやや呆けた顔で見上げた。
紅蘭についてやって来たのは帝劇の地下施設の一つ、格納庫だった。
大河の手から木箱を受け取った紅蘭はここまで運んでくれた礼の言葉に続けて首を軽く傾げた。

「昼間、アイリスと来んかったん?」
「はい、地下は鍛錬室とプールだけで…これが霊子甲冑なんですね…」

白、桜、黄、緑…色とりどりの機体を順番に眺める大河の胸には壮観の二文字しか浮かばなかった。

「すごいやろ、この子たちは。」

木箱を床に置いた紅蘭は独り言のように呟く。

「今の帝都は平和やけどな、ちゃんと面倒見とかんとな。」

ぽんぽんと白い機体を叩く紅蘭に、大河は軽い違和感を覚えた。
普通、この場合はこの子たちではなくこの機体、面倒を見るではなく整備するではないのだろうか。

「ウチはな、この子たちがかわいくて仕方ないんや。」

その疑問を形にする前に紅蘭が答えをくれた。つまり、彼女は

「紅蘭さんは、機械が好きなんですね。」
「せや。特にこの子らは格別やね。こんなに乗り手の事を考えた機体はないで。
 それに、愛情持って接すれば光武は必ず応えてくれる。機械も人もおんなじや。」
「同じ……」

呟く大河に紅蘭は大きく頷く。

「大河はんも向こうに行ったら霊子甲冑に乗って戦うことになるはずやから、自分の相棒は大切にしてな。」

相棒、という言葉に大河は気づく。
きっと霊子甲冑とは人外のものと戦うこととなる自分たちにとって道具や手段ではなくそういう存在でなくてはならないんだ。

「はい、わかりました。」

まっすぐな瞳で頷く大河に自分の伝えたいことをちゃんと受け取ってくれたと判断した紅蘭は柔らかく笑う。

「ほんなら、ウチは作業に入らせてもらいますわ。おおきにな、大河はん。」
「いえ、じゃあぼくも行きますね。」

互いに手を振ってそれぞれに足を進める。

(霊子甲冑……あれも、守る心の現れなんだな。)

階段を上った大河は目の前の中庭から微かな音を聞きつける。

「ん…だれかいるのかな?」

半開きになっている扉からそっと中庭の様子を窺うと、そこにいたのは月明かりを背に軽やかに舞う銀髪の乙女。

「……何か用?」

人の気配に気づいたレニは舞を止めて扉のそばで立ちすくんでいた大河に視線を向ける。

「あ、いや…その……綺麗だなって思って……」
「……………」

とっさの事に大河は見た光景の感想をそのまま述べた。
しなやかに優美に舞うその様はたしかにそこに在るのに幻想的で―――
その舞手は意外そうに瞬きをして大河を見つめるが、やがてふわりと表情を和らげる。

「そう……ありがとう。」
(あ…笑った……)

一瞬垣間見えた笑顔はアイリスの言うとおり確かに印象的だった。




「あらあら…レニが笑ってまーす。」
「新次郎は人懐っこい感じがするから、親しみやすいんじゃねぇかな。」
「ああ、なんとなくわかる気がしまーす。犬っぽい感じがしますね〜」
「あはは!そうそう、そんな感じ!」
「……二人とも、覗き見は感心しないわよ。」

一方、中庭に面する窓から二人を見下ろす形で眺めていたカンナと織姫は背後からのやや怒気を含んだ声にビクッと肩をすくませた。
振り向くとマリアが困ったような表情で腕を組んでいた。

「覗き見じゃないでーす。たまたま通りがかったら見えただけでーす。」
「そういう、織姫と歩いてたらだなぁ……」
「まったく……」

ため息混じりの言葉に二人は軽く肩を竦ませる。悪気は無いのだから、この辺で勘弁してほしい。

「なぁマリア、隊長がどうして新次郎を推薦したかわかる気がするな。」

ふっと真剣な面差しを見せるカンナにマリアは瞬いてから同意する。
たった一日なのに、彼の存在は帝劇にたしかに在る。このままここにいてもいい仲間になれただろう。

「……そうね。あの気性は得難いものだと思うわ。
 紐育に行くことも、すんなりと受け入れていたし。」

「皆さんおせっかいですからね〜素直な生徒さんがいるとイキイキしてまーす。」

だが、彼は新天地に赴くための人物なのだ。そんな人物に出来るのはアドバイスだけ。
歯に衣着せぬ織姫のいつもの言葉にカンナが笑って頷く。

「たしかにな。みんな新次郎のことを気に入ってる。」
「そうね、あの調子なら実力主義のアメリカでもなんとかやっていけるでしょう。
 …自分自身が努力を怠らなければ。」
「さすがにマリアは厳しいな。」
「あら、本当のことよ。
 紐育は様々な人種が集まっている多民族の都市、自分を打ち出せなければそれまでなのよ。」

実際に現地で過ごした人間の言葉には説得力がある。
花組に来る前、彼女は紐育にいたしその後も度々護衛任務で渡米しているのをよく知っている二人はなるほど、と頷いた。

「さぁ、もう行きましょう。あんまり遅くなると明日に響くわよ。」
「そうですね〜睡眠不足は……」
「健康の大敵ってな。じゃあマリア、おやすみ!」
「おやすみなさ〜い。チャオ!」
「ええ、お休み二人とも。」

自室に向かう二人を手を振ってマリアは最後に中庭を一瞥する。
レニの姿は既に無く、大河の後ろ姿が窓縁に一瞬見えてすぐに消えた。

(でも……それが出来ると信じてるから、推薦したんですよね。)

声には出さずにただ微笑むとマリアも今日を終えるために自室へと足を進めた。




そういえば、花組の隊員のみなさんには会ったけど他の帝撃の人たちには会ってないなと思った矢先にその人は現れた。
玄関の鍵を閉めて振り返った陸軍の軍服の女性はロビーを通りがかった大河を見てあら、と声を上げた。

「こんばんは。はじめまして……あなたが大河少尉なのね。」
「は、はい!…あの、あなたは……」
「私は藤枝かえで。ここの副指令をしているわ。」

よろしくね。そう言われて差し出された手は親しみやすく、大河は自然と握手を交わすことができた。

「初めての異国で不安かもしれないけど、頑張ってね。」
「ありがとうございます!」

大河の返事にかえでは満足そうに頷くとするりと手を離して微笑む。

「ふふふ…それじゃあ、今日はおやすみなさい。明日は早いわよ。」
「はい!」

そのまま食堂の方へと歩き去ろうとしたかえでだったが、ふと立ち止まって大河を見やる。

「……そうそう、一つ聞いていいかしら?」
「あ、はい。」
「あなたは、平和のための犠牲についてどう考えている?」
「犠牲…ですか……」

反復した大河は腕を組んでやや俯く。やがて導き出した答えをぽつりぽつりと形にする。

「ぼくは……犠牲は、よくないと思います。
 理想論かもしれませんが…甘いかもしれませんが…みんなが幸せになれる世界のために戦いたいです。」

この考えを笑う同期生もいたな、と思い出したが、そこは胸の内に留めておく。
たとえ笑われてもこの考えを変えるつもりはない。
その大河の答えに、かえでは安心したように表情を和ませた。

「そう…よかったわ。」
「え…?」
「私個人としては平和のための犠牲は認めてないから。
 残された方の悲しみは…たとえ世界が救われようと、拭えるものじゃないわ。」

ふっと見せた寂しげな瞳の理由を、大河は知らない。だが、その考えには共感できた。

「ごめんなさいね、突然こんな話をして。」
「いえ、勉強になりました。」
「ありがとう。…じゃあ、私は行くわね。」

軽く手を振ったかえでは、今度は振り返らずに去っていった。
それを見送った大河もそろそろ眠ろうと部屋に戻るためにロビーの階段を上がる。
だが、階段を上りきった所でテラスに佇む人影を認めて大河はまた足を止めた。桜色の袴に長い黒髪を赤いリボンで束ねたその人物は大河が最初に出会った人物。

「……さくらさん?」

声をかけると、振り返ったさくらはにっこりと笑みを見せた。

「大河さん、どうかしたんですか?」
「帝劇の中を見ておこうと思って…さくらさんは?」
「あたしは、ここから街の灯を見ていたんです。」

隣に立った大河にそう語りかけると、さくらは再び街並みへと視線を流す。大河もそれに倣うと、眼下には銀座の夜景が広がっていた。

「あたし、ここに来てからずっとすごいなと思ってるものがあるんです……それが、街の灯なんです。」
「ずっと…ですか。」
「ええ。だって街灯はただそこにあるのに人々を照らしている。
 家の灯り一つ一つには一人一人の生活がある。
 それが集まるとこんなに素敵な景色を生み出すんですよ。」

そう語るさくらの瞳はキラキラと輝いていて、本当に愛おしそうだった。

「街の灯はあたしの……あたしたちの希望の灯火なんです。
 この大切な灯りのために、あたしたちは歌い、踊り…戦うんです。」

強い意志に慈しみの心。さくらの花組隊員としての意識に大河は圧倒された。
再び見やった銀座の街並みも先ほどとは違ったものに見える。
都市には人の思いが集う。その思いを受けとめて輝く花組。

「さくらさん……」
「ふふっちょっと照れくさいですね。じゃあ、あたしもう行きますね。おやすみなさい、大河さん。」
「あ…はい。おやすみなさい。」

ハミングを口ずさみながら遠くなっていくさくらの背中を大河は衝撃を引きずったまま見送った。
今まで大神からしか聞いたことのなかった戦う乙女たちと直に話して、今日一日でずいぶんたくさんの事を教わった気がする。

「すごいなぁ……」
「何がすごいんだい?」
「え?わ!一郎叔父……」

誰もいなくなったはずのロビーに響いた声に慌てて振り返ると懐中電灯を片手に佇む大神の姿があった。

「一郎叔父は何をしてるんですか?」
「ああ、夜の見回りだよ。これも俺の立派な仕事さ。
 銀座の街並みを見ていたのかい?確かに、ここからの眺めは素晴らしいな。」

夜景から隣りに立った大神に目線を移した大河は、さくらたちのような女性をまとめている叔父の器の大きさを改めて感じた。

「…さっき、さくらさんと少し話をしたんです。
 この夜景は希望の灯だって聞いて……すごいなと思ったんです。」

うっすらと窓に映る大河の瞳から尊敬の念とあんな風に自分も強くなれるのだろうかという微かな不安を読み取った大神は昔のようにぽんぽん、と頭を撫でようと手を伸ばしかけたが、止めた。
彼はこれから一人で異国へと赴かなくてはならない。その先には沢山の乗り越えなくてはならない出来事があるだろう。

「……新次郎は、華撃団をどういう組織だと思う?」

代わりに問う。問われた大河は今日一日のまとめとして先ほどからぼんやりと浮かんでいた考えを声という形にするべく大神をまっすぐ見上げて口を開く。

「華撃団は…平和のために戦う組織だと思ってました。でも…」

一旦言葉を区切る大河に、大神は一つ頷いて続きを促す。

「それでは、軍と同じなんですよね。でも、華撃団は軍とは違う……
 攻め込む戦いはせずに…街を、そこに生きる人を…守るために戦う。そして平和に繋げる組織だと、思いました。」

これが、花組から学んだ気持ちの答え。声に出したことで納得がいったのか大河の瞳から不安の色が薄れていたのを確認した大神は力強く頷いた。

「そうだ。華撃団は都市防衛構想の要となっている。それは巴里も、紐育も同じだ。
 新次郎…お前はまだ自分のスタート地点に立っていない。紐育に着いてからが本当の始まりだ。
 その気持ちを忘れずに、頑張ってこい!」
「はい!…ありがとうございます!」

大神の激に鼓舞され、大河は背筋を伸ばして応える。

「うん、いい顔だ。明日は俺が港まで付き添うことになっているから、五時に玄関で待ってくれ。」
「わかりました!」
「今夜はゆっくり休むといい。明日からしばらく船の上だからな…ハンモックじゃないから寝心地に問題無いと思うけど。」

大神が海軍の演習のことを指しているのに、大河は思わず笑ってしまった。

「あはは…そうですね。でもハンモックも慣れるとちゃんと眠れましたよ。」
「そうだな、要はコツを掴むことだ。……じゃあ、俺は見回りがあるからそろそろ行くよ。」
「はい。ぼくももう休ませてもらいますね。」

ぺこりと頭を下げて部屋へと向かって行く大河を見送り、大神は見回りを続ける。

(やっぱり、不安はついて回るか…)

確かに自分も巴里に行く時に不安が無かったと言えば嘘になる。
そんなときに支えとなったのは此処の存在だった。
だが、大河にはまだその支えが無い。

(うーん……出来る限りフォローしてやりたいけど、俺が出過ぎるのは絶対に良くない。)

足を止めずに唸る大神はふと気づく。米田長官もこんな風に自分を見守ってくれていたのだろうか。

(そうだな、俺も……一つ一つ知っていったんだ。)

そして、それは今なお続いている。学ばない日などないのだ。それでも迷う日にはあの言葉を思い出す。

「大切なのは自分を信じて…後悔しないよう、常に努力し続けること……」

自室の前で懐中電灯のスイッチを落とした大神は自分に言い聞かせるように声に出す。
支えとなるものは一つだけではない。自分を律するものも支えとなる。
部屋に入った大神はそのまま机へと足を向ける。

「ええと、たしかここに……あったあった。」

引き出しの中から小さな巾着袋と丸い手鏡を取り出した大神はそれを巾着袋に入れるときつく紐を絞める。

「これを明日、新次郎に渡そう。律儀だから、本当にギリギリまで開けないだろうな。」

注釈付きで渡すつもりのそれを机の上に置いた大神は寝支度を整えるべく動きながら、幼い頃の彼を思い出して笑みを浮かべる。
今日久しぶりに会っても彼の印象は変わらなかった。真っ直ぐに成長している証拠だ。
その彼がどうしようもない壁にぶち当たる時は本当にギリギリの状態だろう。

(だが、それまでに幾つもの困難を乗り越えているはずだ。
 それは必ずその壁を越える力になる…それを教えるのは、俺の役目だ。)

最後に頼れるのは自分。自分を信じられてこそ、大きく羽ばたける。
遠く離れていても、この心は届く。
そう信じて大神はベッドに横たわった。





翌朝、朝靄が街を包む中二人の男が帝劇を出発した。
一人は新天地に赴くため。
一人はそれを見送るため。
それぞれ明日を見つめる瞳を輝かせ、歩く様は頼もしく、誇らしく。
それは数々の出会いと別れの舞台となる港に新たなエピソードを刻む。

「……新次郎。」

乗船するべく足を進めようとした大河は呼び止められて振り返る。
首を傾げて見上げてくる甥の手のひらに大神は昨晩用意した巾着袋を乗せた。

「これは?」
「お守り、だな……向こうに行って耐え難い苦難にあったらこいつを使え。
 だが、その時まで決して開けるんじゃないぞ。」

叔父としての激励の言葉に、大河は真っ直ぐな笑みを浮かべる。

「はい。」
「それともう一つ……」

それを懐にしまった大河は大神が続けた言葉に再び目を合わす。

「どんな相手でも、自分を信じて真っ直ぐに向き合え…新次郎。
 いや、大河新次郎少尉!健闘を祈る!!」

叔父として、帝国華撃団総司令として送り出してくれる大神の思いを、大河はしっかりと受け止める。

「はいっ!ありがとうございます!」

その瞳は未来だけを見つめていた。


    END

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