重桜
桜舞う中、その女性は目を伏せつづけて歩いていた。時折通りかかる道行く人はそんな彼女を見て振り返りはするが、話し掛けてはいけないような気がして、そのまま去るしかなかった。
風が吹くと桜の花びらが盛大に舞い、人々の目を空へと向けるが、彼女は変わらず目を伏せたまま歩いていった。
ふと、頬に水滴が当たった。
「あ………雨?」
そう思い顔をゆっくりと空に向けたとたん、大粒の水滴が雪崩のように降ってきた。
遠くで人々が慌てて近場の軒先へ避難する声が聞こえたが、彼女はその姿勢のまま動かなかった。
「こんな急などしゃ降り……桜が散って…まだ一緒に花見に来ていないのに……」
だれと?
ふいに脳裏に自問の声が響いた。答えの代わりに自分からも雨があふれ出た。
ただ一点から、とめどなく静かに。
声を上げられたらまだスッキリしたかもしれないが、喉が詰まって痛かった。
それからの事は、よくわからない。気がついたら雨は止んで空はすっかり暗くなっていた。
そして、自分は今どこへ向かっているのだろう?
足の向くまま細いごつごつとした道を進む。
「あっ…!」
足元がおろそかになっていて、石に気がつかず思いっきり転んでしまった。
「…う……」
よろよろと立ち上がろうとしたとき、目の前に大きくて暖かい手が差し伸べられた。
「……は…っ」
その手を差し伸べた人物の顔を見た途端、顔が綻んでいった。
手を掴もうと腕を伸ばした時―――差し伸べられた手は消え、また転んでしまった―――残像。今はただ痛いだけ。
また身体の内からこみ上げてくるものを必至で抑え、強い勢いで頭を振り、一人で立ち上がる。
(もう、街灯も見えない――)
なのに、目の前にある細々とした道先はよく見えた。
すっと空を見上げると、雨で澄んだ空気の中月と星が煌々と空を輝かせていた。
(月明かりと星明りが……)
しばらく呆然と空を見上げる。ほんの少し、口端が上がった。
(行ってみよう―この道の先。)
ぴしゃりと頬を両手で叩き、先ほどとは少し違う足取りで、続く道を進む。
ずいぶん歩いた後、道は開けた所に出た。そこには満開の桜があった。
(あの雨で散らなかった!?あ―――)
桜の木に駆け寄ってよく花を見ると―――花は一重咲きではなく、幾重にも重なって咲いていた。
「八重桜……」
人々が花見を終えた頃、静かに咲く大輪の桜―――そっと幹に触れると、不思議と暖かい感じがした。
「咲いて散る…そしてまた咲く。桜―――たくさんの、桜。」
八重に十二重に。咲く花よ。
(今すぐは…無理だけど、いつか心から言える「ありがとう」と……その日がきたら、またここへ来よう。)
八重に十二重に。二十重に咲く花よ。
その命ある限り咲き誇れ。
END
書棚へ戻る