今昔恋歌


「かすみのこと、すきだよ。」

わたしも、てつくんのことがだいすき。





 朝日の気配に目を開けると、よく知った天井が見えた。

「……………」

ゆっくりと体を起こすと、今しがた見ていた夢を思い起こす。
が、もうおぼろげでしかない。

(懐かしい、夢だったわね。)

ベッドから降りて、着々と身支度を整える。最後に鏡台の前に座り、髪を整え、それを束ねる為にリボンに手を伸ばす。

(わたしも、随分と夢見がちよね。)

綺麗に結ぶと、かすみは少し笑って朝食の準備に取り掛かった。
今日もまた、一日が始まる。




「なんて言うか…最近、騒がしいですよね。」

書類整理の片手間にペンをくるくる回しながらそう切り出したのは、同じ仕事場の榊原由里であった。

「騒がしいって…花組の皆さんがってこと?」

かすみも郵便物の仕分け作業を進めながら切り出しに返す。

「そう!やっぱり大神さんがいなくなって寂しいみたいですね。
 カラ元気って感じがするわ。」

噂好きの由里はそういう変化に鋭い。
なるほど、そう言われれば…とかすみも納得する。大神が巴里に発ってそろそろ一ヶ月が過ぎようとした。

「たしかに、二年前に大神さんが海軍復帰した時とにてるわね。」

実は花組の隊長である大神一郎が帝劇を離れるのは今回が初めてではない。
目的も理由も違うが「離れた」事には前回も今回も変わりは無い。

「でしょ?きっとこの騒がしさももうすぐ終わりですねー…」

「そうね、このままいけばたぶん…」

「あーあ、大神さん早く帰ってきてくれないかなぁ。
 大変なのは少しの間とはいえ、ああいう雰囲気はニガテです。」

「手紙でもあれば、また違うかもしれないけど―――」

そう呟いたかすみの手が止まった。かと思えば、今度はくすくすと忍び笑いをこぼしている。

「どうしたんですか、かすみさん?」

「由里、これ!誰からだと思う?」

ひらりと由里の手に落とされた国際便を見て由里も笑い出す。

「かすみさん、二年前と違うことが起こるかもしれませんね。」

「そうね。」

「あたし、この手紙を花組の皆さんに渡してきますね。
 きっとビックリして飛びついてきますよ!」

言うが早いか、由里は事務局を飛び出し、サロンに向かった。ちょうどおやつ時、花組も集まってお茶をしているはずである。

「もう、由里ったら。」

かすみ一人となった事務局で、サロンの様子を想像しながら仕事を再開しようと次の郵便物に手を伸ばした。
しかし、作業はまた中断された。

「私宛て…?めずらしいわね。」

帝劇に来る郵便物の八割は花組へのファンレターである。
残り二割は公演関係の物や、米田の酒の請求書ぐらいであって、こういった個人宛ては稀であった。
裏を見て、差出人の名前を確認するとかすみの顔が驚きから穏やかに変化していった。

(まぁ…ずいぶん、懐かしい人からね。)

ちらりと時計を見ると、かすみは手紙の封を切った。





それから三日後。午前上がりの仕事を終えたかすみは若葉が茂る上野公園の一角、西郷隆盛像の前へ向かっていた。
上野駅の改札をくぐり、少し行った所にある階段を上ると、待ち合わせ場所で佇んでいる男性がこちらへ向かってきた。
着物をきっちり着こなし、少々白髪混じりの髪の背筋をしっかり伸ばした壮年の男性にかすみはにっこり微笑んだ。

「お久しぶりです、萩崎先生。」

かすみの言葉と笑顔に、男性のキツイ眼つきが和らぎ、優しい笑みとなった。

「ああ、かすみさん。突然呼び出して悪かったね。なぜだか急にかすみさんに会いたくなって…」

「いいえ、久しぶりに萩崎先生に会えて、私も嬉しいです。」

「さて、立ち話もなんだからどこか店にでも入らんかね?」

萩崎の提案に、かすみは頷き、並んで歩き始めた。
少し歩いた所でこじんまりとした洋食屋を発見した二人は、その店のドアをくぐった。それぞれオーダーを取りに来たウエイトレスに注文をすると、萩崎の方が口を開いた。

「しかし、縁というのは不思議なものだな。
 君がまだ小さかった頃、わたしは近所に住む冴えない絵師でしかなかったのに。」

「萩崎先生の絵は、わたし昔から大好きですよ。
 その先生が帝劇のポスターなどを描かれていてとても嬉しく思います。」

萩崎祐太郎、という名のこの男。実は帝国歌劇団としては公演ごとのポスターを描き、帝国華撃団としては、有事の際に隊員が使用するダストシュートの出口の肖像画を描いている。裏表で帝劇の関係者なのである。

「わたしも絵が思う存分描けて嬉しいよ。あの時米田さんに出会えて本当に良かった。
 上京したはいいが、まだ右も左もわからなかったからな。」

「支配人もよく萩崎先生のお話をなさいますよ。先生は本当に腕が立つって。」

「はっは。嬉しいねぇ。」

その後、同じ長屋に住んでいる写実主義の画家と親しくなったと話題が進んだ所で注文した料理が二人のもとに運ばれてきた。
ナイフとフォークを手にして食事をはじめると、しばし口は食べる事に専念する。
その間、かすみはここ数年帰っていない故郷を思い出していた。

(ああ、てつくんは元気かしら?)




まだ幼かった頃。そう、わたしは先生の息子の萩崎哲彦くんとよく遊んだわ。
お母様を早くに亡くなられて、先生の仕事中は家で預かっていたしね。
川辺で水遊びをしたり、家々の垣根を使ってかくれんぼしたり…いつだったかて家の床下から急にネズミが飛び出してきたこともあったわね。
わたしはビックリして泣き出してしまって…それ以来ネズミは大の苦手になって…

でも、てつくんは一生懸命ネズミを追い払おうとしてくれたわね。
そう、そのときからてつくんが「お友達」の線を越えはじめたんだわ。

それから何度目かの季節が巡って、お正月が過ぎて間もない頃。
近所に住んでいたお姉さんがお嫁に行く事になって…てつくんは、そのお姉さんが好きだったのよね…
お姉さんの結婚式の日まで毎日のようにお姉さんの所に行って「行っちゃやだ!」って駄々こねて―――わたしはなんだか複雑な気持ちだったわ。

でも、結婚式が過ぎてお姉さんが嫁いでしまってから、てつくんは少し変わった。
難しい顔をして考える事が多くなってたわ…わたしともあまり遊ばないで……わたしも、家の手伝いとか勉強とかあったけど。

でも、その年の春過ぎの頃―――学校帰りの人気が無い所でてつくんが顔を俯かせながら小さな花束をくれたのよね。
白くて小さな花がいくつも咲いていて…それを紅藤色のリボンで束ねた花束。
戸惑いながら受け取ったわたしに、てつくんは俯いたままでこう言ったわ。
「かすみは、かすみのままでいて。」
その後、顔を上げて真っ直ぐにわたしを見て…
「かすみのこと、すきだよ。」

突然で、何がなんだか分からなかったわ。でも「すき」と言ってもらえたのが嬉しくて嬉しくて、わたしはすぐに返事をしたわ。
「わたしも、てつくんのことがだいすき。」




「…かすみさん?」

萩崎の声に、我に返ると萩崎が少し戸惑った目線をこちらに向けていた。
気がつけば食事を終えて、もう珈琲がテーブルには出されていた。

「どうしたんだい、急にぼんやりして…」

「あ、いいえ…すみません、なんでもないんです。
 ただちょっと昔を思い出していて……」

「ああ、そういえばかすみさんは家の哲彦と仲が良かったね。」

萩崎の言葉に、つい先ほどまで見ていた回想記も手伝って一瞬動揺の色を出してしまった。
あわてて笑顔に戻すと、かすみは口を開いた。

「え、ええ…よく遊んでました。
 その…てつくんは今何を?」

「ああ、出版社に勤めておるよ。小さい所だがね。
 そうだ、これから会いに行ってみるかい?今日はもう家に帰ってる頃だから。」

「えっ?」

かすみの返事を聞く前に、萩崎は思い立ったが吉日の勢いで席を立った。
会計へ向かう萩崎を、かすみは否応無しに追いかけるしかなかった。

(そんな、急にそんな事言われても…だって、もう何年も会ってないのに。)

東京に来ていた事は聞いていた。が、仕事が忙しくて会いに行く時間がなかなかに取れなったのだ。
かすみが複雑な思いを抱えているとは露知らず、萩崎は帝鉄の乗り場に急いだ。
幸い、そんなに待つことも無く帝鉄に乗ると、ほどなくして哲彦が住んでいるという長屋の近くへ停車した。
長屋の入り口まで歩いて門をくぐろうとした時、ふと看板を見上げると「ちっぱり長屋」と書かれていた。

「この奥だよ。」

どんどん歩く萩崎の背を見ながら、かすみの心拍数は上がっていった。
だって、どんな顔をして会えばいい…?

「おぉーい、哲彦。お客さんを連れてきたよ。」

戸を開けながら萩崎が家の中に叫ぶと、二階から少しゆるめに着物を着て、髪をしっかり整えたままの男性が降りてきた。

「父さん?お客っていったい誰だい?」

「……わたしよ。てつくん、お久しぶりね。」

かすみが声をかけると、二階から降りてきた男性―――萩崎哲彦の動きが一瞬止まった。
そして次の瞬間、声を高潮させた。

「かすみ!?かすみなのか!?」

「ええ。しばらく見ないうちにちょっと変わったかしら。」

「えっと…ああ、その……」

「こら、哲彦。お客さんにいつまで立たせておくんだい。」

萩崎の一言に、哲彦は我に返ったように動き出した。

「あ、ああそうだった。
 とりあえず上がってくれよ。今お茶も出すから。」

「あ、いいわよ別に…」

戸口で済まそうと思っていたのだが、萩崎に招かれ、哲彦にお茶を入れてもらったのでは帰るに帰れない。
かすみは萩崎のペースに乗っていた。家に上がると、程なくして日本茶が振舞われた。

「それにしてもビックリだよ。かすみとこんな風に再開するなんて。」

「わたしもよ。」

「はっは。なんだかまるでお見合いみたいだな。」

二人の動向を見ていた萩崎が笑う。
苦笑を浮かべながら応えようとするが、その前に哲彦が口を開いた。

「やめてくれよ、かすみが困るだろ。
 それに、そんな事が春恵の耳に入ったら……」

「春恵?」

哲彦の口から出た、聞き知らぬ名に思わず反応してしまうかすみ。
かすみの知らぬ顔に、萩崎親子は顔を見合わせた。

「……そうか、かすみさんには言ってなかったか。
 いや、とうに言ったと思っていた。」

「実は…おれ、去年結婚したんだ。」

哲彦の言葉に、かすみの心臓がピクリと動いた。

「ほら、三年前にあった大震災…あのときに、怪我をしていた春恵を助けたのがキッカケでさ。
 それから何回か会うようになって、去年結婚したんだ。本人は今買い物に出ていないけど…」

「そう、だったの……
 …ごめんなさい、お祝いも何もしないで…」

「い、いや、言ってなかったこっちのせいだから、気にしないでくれよ!」

慌てて早口になりながらの哲彦に、かすみは微笑みかけた。
てつくんには、もう大切な人がいたのね。寂しいような、でもどこか冷静に受け入れている自分がいる。
ああ、大丈夫だわ。笑顔で言える。

「遅れちゃったけど、おめでとう、てつくん。」

「…ありがとう、かすみ。」

ほんわかとした空気に包まれた二人を見て、萩崎は静かに息を吐いた。
その次の瞬間、長屋の戸を叩く音がした。

「あ、はい。どうぞ。」

哲彦がそう答えると、外から顔見知りの男性が入ってきた。

「哲彦君、祐一郎さんはいるかい?今度のコンクールの事でちょっと聞きたいんだけど……」

「緒方さん!」

思わず声を上げてしまったかすみの顔を見ると、緒方も意外そうに答えた。

「あなたは…たしか帝劇の事務をしている…」

「かすみさんじゃないですか〜!」

さらにかすみにとって意外な人が戸の外から顔をのぞかせた。

「織姫さん!?」

「かすみさん、ここでなにしてるですか〜?ビックリで〜す。」

「わたしは、萩崎先生に連れられて、久しぶりに幼なじみの哲彦君に会いにきたんです。」

「ふ〜ん…そですか。わたしはパパにちょっと会いに来てました〜
 それにしても、萩崎さんとかすみさんが知り合いだったなんて、世間は狭いですね〜」

「本当、ビックリです。知り合いになった画家って、緒方さんのことだったんですね。」

不思議な縁でつながった知り合いたち全員が「面白いものだ」という顔を出した。

「…それじゃあパパ、暗くなってきましたし、わたしそろそろ帰りま〜す。」

「ああ、気をつけて帰るんだよ、織姫。」

織姫が緒方の肩に手を当てて、長屋を出ようとしたのを、かすみは慌てて引き止めた。

「あ、織姫さんちょっと待って。わたしも途中までご一緒します。
 それじゃあ、萩崎先生、てつくん。わたしもこの辺で…」

「ああ、そうだね。かすみさん、今日は付き合ってくれてありがとう。」

「いいえ、わたしも楽しかったです。」

「かすみ、また今度ゆっくり会おうな。」

「ええ、ぜひそうしましょう。それじゃあ、失礼します。」

靴を履いて、戸口で二人に礼をして、緒方に会釈をすると、かすみは外で待っていた織姫と一緒に長屋の出口へ向かった。
そのとき、すれ違った女性が萩崎の家に入っていくのが視界の端に捕らえられた。

(ああ、きっと彼女が春恵さんなんだわ。)

そのままもう一度萩崎の家を見ることは無く、かすみは織姫と帝鉄の停留所まで一緒に行き、帰る方向が違うのでそこで別れた。
かすみの住まいはここから歩いて二十分ぐらいだったので、帝鉄を使わない事にしたのだ。
歩きながら、ふと哲彦の顔が脳裏をよぎった。

(やっぱり、彼は気づかなかったわね。あの時彼がくれた花束のリボンと同じ色の物をしているって。)

かすみの髪を束ねる為のリボンは、何本か持っているが、色はこの色しかない。
大切な思い出が詰まった色だから。

(…でも、これからもこのリボンの色でいきましょ。大切な思い出には変わりないし。
 それにしても……)

「結婚かぁ……」

最後の呟きだけ声に出す。
色合いが深まってきた若葉を南風が揺らす。
もうすぐ夏である。

「わたしもまた歌いたくなったかな。」

今も昔も、高らかに。良い人と出会い、想いながら、素敵な恋の歌を―――


   END

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