「マリア、出かけるの?」

11月の最初の休日。まだ朝靄の残る時間にも関わらず小さなバックを持って玄関ホールに立つ人物を見つけてレニは階段を下りながら声をかけた。

「あら、レニ。おはよう。ちょっとかえでさんと紅葉を見に行って来るわ」
「紅葉?」
「ええ、いま丁度見頃なんですって」

二人の会話に、さらに上から新たな声が加わった。
同時に見上げると、軍服ではなく柔らかい印象を与える私服で身を包んだかえでが微笑んでいた。

「おまたせ、マリア。じゃあ行きましょうか」

頷くマリアがかえでからレニへ視線を滑らせると、レニは少し考えこむように首を傾げていた。
小さく動いた唇は「こうよう」と形作っている。

「レニも良かったら一緒にどう?今日は稽古も無いでしょう」

マリアの誘いに顔を上げたレニは、同時に優しい笑みを浮かべたかえでに肩をポンと叩かれた。
そのままかえでに手を引かれて一緒に階段を下りながらレニは少し頬を染めながら頷いた。



北に一時間ほど帝鉄に揺られていくと、景色はがらりと変わる。
隙間無く立ち並んでいたビルは消え、静かな田畑が現れて開け放たれた窓から入り込んでくる空気は軽く澄んでいるようだった。

(そう言えば、蒸気が及ぼす空気汚染についての論文があったわね)

先日新聞の片隅に載せられていた記事を思い出しながら、マリアは隣に座るレニをチラリと見た。
レニはただじっと黙って流れる景色を見つめている。

「これから行く所はね、わたしが前の休暇で見つけた場所なの。きっと、気に入ってくれると思うわ」

その更に向こうに座っていたかえではレニとマリアに笑いかけた。



レニの記憶にあった森や山は一年中深い緑の葉をつけた杉が高く生い茂り、暗い闇が支配するものだった。
だから、こんな山肌は見たことがない。

「……………」

明るい緑に混ざって紅や黄色の葉が鮮やかに山の裾野まで彩っている。

「ラジヲの言ってたとおりね。丁度良いわ」

目を軽く見開いたまま微動だにしなかったレニは、背後から聞こえてきたかえでの声でようやく動きを取り戻した。その隣にはマリアが眩しげに目を細めている。

「帝都の銀杏並木も綺麗ですが、やはり山の錦は素晴らしいですね」
「レニはどう?」

かえでの問いにレニは小さく頷いて

「うん…すごいと思う」

短いが素直な感想を述べた。
その答えにかえでは嬉しそうに笑みを深めて歩き出した。

「さぁ、もっと近くに見に行きましょう。山の天気は変わりやすいのよ」



「……たしかに、変わりやすいですね」

それからしばらく後。一行は山の中腹にある茶屋で強制的に一休みをとらされていた。

「夕立ですからすぐに止みますよ。まぁまぁ、それまではゆっくりしていってくださいな」

茶屋の主人である老婆が暖かいお茶と椛が添えられた団子を三人にそれぞれ配り終えると、一礼して奥へと帰っていった。
店先の長椅子に帝鉄と同じ並びで座っていた三人は雨にけぶる紅葉を眺めながら三者三様の表情を浮かべていた。

「今日は清々しい秋晴れってラジヲで聞いたのに…やっぱり山だと当たらないわね」

声にも落胆が現れているかえでは黙々と団子を頬張る。

「でも、雨の紅葉もなかなかですよ。それに雨上がりが楽しみじゃないですか。より空気が澄んでよく見えますよ」

それをフォローするマリアはどこまでも穏やかだ。湯のみを両手で包み、飲みやすい温度になるまで待っている。

「……………」

そして、レニはただ黙って雨が山に恵みをもたらす様を見ていた。

「そう言えば、レニはもみじ狩りは初めて?」

ふいに話かけられ、レニはマリアの方へ顔を向けて小さく傾けた。

「もみじがり?」
「こうして、紅葉を見ることを目的とした楽しみ方のことよ。実際に何かを狩るわけじゃないわ」
「……日本人の感性は時々理解し難い。けど、紅葉を目的に出かけたのは初めてだよ」

表情を動かさずにそう告げたレニに、かえでは苦笑いを浮かべた。

「たしかに、もみじは生き物じゃないわね。でも、日本人は山で行う事をよく狩りと表現するのよ」
「ふうん…」
「それにしても、最近ぐっと冷え込みましたね」

ようやく丁度良い温度になったお茶を飲んだマリアはその暖かさが身体中を満たすのを感じてほぅと一息ついた。

「この前の雨が季節の変わり目だったのね。そろそろクリスマス公演の準備も始まるし、冬へ向けて動きださないとね」
「ふふっ…かえでさん、すっかり歌劇団のスケジュールで季節を感じるようになってますね」

ある種、職業病とも言える感覚に思わず笑ってしまうマリアだったが、かえでは即座に切り返した。

「あら、それはマリアも同じでしょう?」
「否定はしません。だからこそ、こうして季節を感じるために出掛けるんですよ」
「そうね。せっかくはっきりと四季のある国にいるのだからそれを楽しまないとね」
「私、初めて山の紅葉を見たときはその鮮やかさに驚きました。ロシアはあっという間に真っ白な冬の世界になってしまいましたから」

全てを覆い隠す白い世界。その前にこんなにも色彩豊かな世界があると知ったときは感激すると同時に自分が見落としてきたものの大きさを痛感した。

「何事も視野を広く持たなくては、と思いました」

かえで、次にレニと視線を移してマリアは少し照れたように黙ってお茶を飲み干した。
そんなマリアにかえでは短く同意して同じようにお茶に口をつけた。
レニは今し方聞いた話を全て頭の中で反芻させながら、黙って薄くなった雨雲を見上げた。雨が上がるまで、あと一時間もかからないだろう。



その予測どおり一時間後に雨はピッタリと止んだ。雲間から降り注ぐ日は赤く、辺りを山と同じように赤く染め上げる。

「さてと、頂上まで行けなかったのは残念だけど…遅くなっちゃったしそろそろ戻りましょうか」

かえでの提案に同意し、ぬかるみに注意しながら山を下る。

「レニ、何かあったの?」

無事に平坦な道に出て、あとは駅に向かうだけとなった所で最後尾を行くレニの足音が途絶えたことに気づいたマリアが振り返ると、レニは川面を食い入るように見つめていた。
その声にかえでも立ち止まり、二人揃ってレニの傍まで戻り視線の先を追うとそれぞれに感嘆の声を上げた。
そこは道より低い位置を流れる川で、上流は先程まで滞在していた山だ。
少し流れが緩やかな部分に、赤や黄色に色づいた鮮やかな葉が溜まり、美しい錦を織り上げていた。

「色がくすんでないものばかりだから、さっきの雨で流されてきたんだと思う」
「これはこれで、素晴らしいわね。レニ、見つけるなんてすごいわ」

先程まで心なしか残念そうだったかえでの表情がぱっと明るくなり、レニの肩を軽く揺さぶった。

「マリアが言ってたことを参考にしてみたんだ」
「私?」
「視野を広く…たしかに、今までのボクだったら見落としてたよ。こんなに綺麗なのに…ありがとう、マリア」

微笑むレニに、マリアは最初目を見開かせていたがすぐに同じように表情を和らげると、そっとレニの頭を撫でた。

「お礼を言うのは私たちの方だわ。レニのおかげで、最後にこんな素晴らしい光景に気づけたのだから。ありがとう」
「そうね、ありがとうレニ」

二人から感謝を述べられ、レニは首をすぼめた。
前髪に隠れなかった頬がほんのりと赤い。

(ふふ、レニの顔も紅葉しちゃったみたいね)

声には出さずにかえでは静かに笑い、そっと願いを唱えた。

(この子の心がこれからもたくさんのもので彩られていきますように)

ささやかで切なる願いを、川面の錦は流れるままに受け止めた。




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