必要なもの、大切なもの、その先に在るもの



空と森と優しい気配
ああ、なんて穏やかな世界の色だ、と思った。
両手を広げて手を伸ばす。それに触れたくて、でも触れられなくて…時々胸が締め付けられる。
だから―――僕は願うんだ。





 一日を終える宵闇に刻にカナン・ルーキウスははたと立ち止まった。
日中ならば傍らに控える従者も足を止めるところだが、今はカナン一人なので疑問の声も咎める声も後を追わない。

「……………」

無言のまま海を思わせる大きな瞳を一点に集中させる。
ここは城内の廊下であって別段変わった所も変わった物もあるわけではない。
だが、カナンは規則的に並ぶ柱の一つに手を伸ばすと、軽く力をこめた。
カコンッと小さく音を立てて柱が僅かにスライドする。
その事実にカナンは一つ頷くと柱を元の位置に戻し、何事も無かったように歩き出した。

「やはり、これは……面白くないなぁ」

だが。何事も無いのは表面上だけで内心は渋面そのものであることがぽつりと呟いた言葉にありありと表れていた。




 おかしい。と新緑のような瞳を伏せたセレスト・アーヴィングは顎に手を当てて軽く唸る。
穏やかな晴天がよく似合う午後の一時。先ほどまで彼は彼の主とおやつの時間を過していた。
外はこれ以上ないくらいに晴れやかで、セレストは冒険好きの主がいつ何を言い出すか内心気が気じゃなかった―――が。意外すぎるほどに何事もなくおやつの時間は過ぎていった。

(今日は抜け出された気配もないし…
 いつもなら冒険がしたいだの、城下に出るぞだの言い出すのに…
 どうしたんだ?いや、言わないでくれた方がこちらとしては安心するのだけど……)

自分が苦労する方に意識が傾くのに苦笑しつつも今日は比較的穏やかに過せそうだと前向きに気持ちを切り替え、ティーセットを下げ終えて一歩踏み出した瞬間。
背中を何かが走った。これは直感や予感の類。

「……………」

己の経験からくる知らせを無視することはもちろん出来ず、セレストは今来た道を早足で戻っていった。



「カナン様?」

そして、その感覚は正しかった。部屋の扉をノックをしても返事がない。
ということは―――入りますよ!と一応の断りを入れて扉を開けると、そこはもぬけの殻だった。

「カ、カナン様…!」

やはり油断ならない…くらりと眩暈を起こしかけるが、今はそれどころではないと自分を叱咤して部屋を見渡す。

(窓は鍵がかかったまま。物陰に潜んでいる感じもしない…一体何処から?)

城内での上着がベッドの隅に隠すように置いてあるので外出しているのは確実なのにルートが探れない。
セレストの心に焦りが募りだすが、騎士として鍛えられた冷静な面が微かな違和感を捉えた。
窓も扉も閉まっているのに前髪が揺れる。

(風の流れがある…)

それを彼の人を追いかける見えない標と直感したセレストは微かなそれをたどる。
風はこの部屋に昔からある箪笥の裏から吹いていた。
ゆっくりと慎重に箪笥を横にずらす。すると、箪笥の裏から下り階段が現れた。

(隠し通路!?こんな所に……)

間違いない。十中八九、カナン様はここから抜け出された―――ため息を一つこぼしてセレストは躊躇うことなく階段へと足を踏み出した。



 通路は地下を通っているのか窓一つない。
だが天井部分に生えている光苔のおかげで足元がおぼつかないなどということは無いのは不幸中の幸いだろう。

(まったく、カナン様はどうして昔から一所にいてくださらないのか…)

もはや何度繰り返したか分からないほど感じた感情にただただ頭を痛める。
だが、頭を痛める割にはそれを力ずくでも押し止めようとしたことはあまり無いという自分の中の事実にまたため息をつく。

(…俺も、つくづく甘いなぁ。)

それもこれも……と思考を続けようとしたところで通路が途切れて上り階段に変わる。
どうやらそろそろ到達点のようだ。セレストは心持早足で階段を上る。

(一体何処に出るんだ?
 ………あ!)

ガコンッと地上から見れば床に当たる出口を押し上げると薄暗い通路に慣れた目が突然溢れた光量に驚いて反射的に細める。
二回、三回と瞬きをしてから再び前を見やると、セレストは思わず息を呑んだ。
城内の庭の端に当たる小さな人工池の浮島にある小さなガゼーボ。
その本来ならば背もたれにあたる場所の上に腰掛け、ドーム状の天井を支える柱の一つに体重を預けて上着の代わりに冒険時のマントを羽織っていたカナンが小さな寝息を立てていた。
輪郭を光に満ち溢れた庭園に溶け込ませたかのような安らかな寝顔…セレストは極力物音を立てないようにしながらカナンに近づく。
そして先ほどの思考を再開させる。

(それもこれも…この方の光を陰らせたくは無いから。)

日の輝きと

(この方の瞳が輝いていると気苦労が耐えないのだけれど―――)

水面の煌めきと

(―――それでもその笑顔を何物にも代え難いものだと思うから。)

幸せを湛えた笑顔。

(だから俺はこの方から目が離せないんだ。)

ああ、なんて眩しい光だろう。
目も眩むような強い光だが焼き尽くすような攻撃性は無く、包むような優しく気高い光。
この光を失いたくない。失うことがあってはならない。だから、この方を自分の全てを懸けて守ろうと誓った。

(…と言っても、脱走はやはり褒められたことではないな。)

自分の気持ちと役目に折り合いをつけて、セレストは言葉を発するために息を吸い込んだ。

「カナン様。」
「わっ……セレスト?」

微睡みから突然現実に戻されたカナンはきょとんとした顔をセレストに向けたが、数度瞬きをした後どうかしたのか?と尋ねてきた。
それがあまりにも悪びれた様子がなかったのでセレストは失礼します、と形だけの断りを入れてからカナンの両頬を引っ張る。

「いひゃいぞ、セレスト。」

後半の言葉がはっきりしたのは目を開けたか何の「痛い」という言葉にセレストが素直に手を離したからだ。
実際はそれほど痛くないのだがな。

「まったく…あなたという方はどうしてこう次から次へと…」
「まぁまぁ、そう気にするな。」
「気にします!何かあってからでは遅いのですよ。」

飄々としたカナンの物言いにセレストは深いため息をつく。
その様子から小言の二つや三つすぐさま飛んできそうだと直感したカナンは先手を打つことにする。

「それにしても、よくわかったな。
 今日は一先ずどこに出るか様子を見てからお前を驚かせようと思ったのに。」
「それは、勘と申しますか……カナン様がまた何か仕出かすのではないかと予感が走りまして。」
「むかっ」
「でも、まさか隠し通路だなんて思いませんでしたが…」
「…少し引っかかりを覚えるが、まぁ今回は許してやる。
 お陰で予想外にデート気分が味わえてるから結果オーライというところだな。」

さらりと言われた言葉にセレストは一瞬言葉を詰める。
確かに、この浮島のガゼーボは庭の端にあり、使用時以外は橋が架かっていない為城内では珍しくめったに人が寄り付かない場所だ。

「でもお前の色ばかり眺めていて眠ってしまったのは不覚だったなー」
「私の、色?」
「うむ。青と緑な。」

それ以上の言葉を紡ぐ代わりに視線をガゼーボの外へと向ける。
そこから見えるのは空と木々。優しい気持ちを与えてくれるもの。
ちらりと件の人物を見ると照れと戸惑いとで複雑な顔をしている。
別に、困らせたいわけじゃないが心のままに振舞っても受け入れてくれる彼の前ではついつい素直になりすぎる。自覚はあるが、控える気はさらさら無い自分はなんて子供じみているのだろうとも思う。けれど

(これは僕の一番の世界の色だから、いくら見ていても飽きることは無いんだがな。)

声には出さずにただ微笑む。すると、それに答えるかのようにセレストも微笑を返してくれた。

「そうですか…」
「でも、やっぱり色より本物の方がいいな。」
「ありがとうございます。」

くすくすと笑って背もたれの上に座っているためにいつもより視線が近い相手を見つめる。

(やっぱり僕はお前に傍にいてほしい。)
(やっぱり俺はこの方のお傍にいたい。)

繋がれた思いは口には出されない。
けれど世界が輝くためには光が必要で。
光が在るためには世界が必要で。
どちらが欠けてしまっても死んでしまうだろう。

「……そろそろ戻りましょう。
 お夕食の時間も迫ってきていますし。」

真綿に包まれるような沈黙を崩したのはセレストだった。
どこまでも真面目な奴だ、と思いつつもカナンは頷いた。

「うむ、そうだな。セレスト。」

呼ばれた名前の意味を瞬時に理解して、はい。と一つ答えてセレストは主の差し出した右手を己のそれで支える。
支えを得たカナンは軽い動作で石枠から床へと戻る。何時もの視界に戻ったことを自覚するべく見上げると翠の瞳が応えてくれた。
名残惜しいが繋がれた右手を不自然にならない程度の緩やかな動きで離す。

「参りましょう、カナン様。」
「うむ。」

笑顔で頷き、来た道を戻る。
永遠に続くような、けれども必ず終わりが来る通路を一人ではなく二人で進む。



「それにしても…よくこんな隠し通路を見つけられましたね。」

呆れ半分の言葉に先を歩いていたカナンはふっふっふ…と得意げに笑ってみせる。
通路の終着点、すなわちカナンの自室まで来た段階で漸く振り返り口元に人差し指を当てて悪戯っぽく口を開く。

「なぁセレスト。あの時ナタブームたちはこの城に精通していると言っていたよな?」
「え、ええ…」

カナンが言ったあの時を思い出してセレストは少し複雑な声を発してしまった。
だが、カナンはあえてそこを気に留めずにマントを外しながら言葉を繋ぐ。

「その後、別の出口から脱出するとも言っていたよな?」
「……はい、確かに。」

その流れで城内での上着を着つつも口元に笑みが隠せない主君の様子にセレストは先ほどとは変わり、嫌な予感を募らせた。

「僕は生まれてからずっとこの城に住んでいるのに、そんなことはちっとも知らなかった。
 それなのに、一介の盗賊団が熟知していた。
 これは城に住むものとして、王族として由々しき事態ではないか。」

案の定、カナンは極上の笑顔でセレストの予感を確信へと変える声を発した。つまり…

「だから、他にも隠し通路が無いか調べたんだ。
 そしたらかなりあってな!」
「……カナン様、」
「いろいろな場所に出るみたいでなかなか面白そうだ。だから…
 明日からはそれを確かめて行こうと思っている。」
「カナン様!」

つまり、このご無体な主君は新たな冒険の火種を手にしてしまったということだ。しかも、自らの住まいで。

「心配しなくても兄上や姉上の私室や謁見の間にありそうな通路は自重するぞ。」
「そういう事ではなくて!!…というかそんな所にまであるんですか…」

反射的なツッコミを入れつつも何とか止めようと作動する頭は言葉を探るが、絶好調のカナンの笑みになかなか決定打を打つことは出来ない。

「セレスト、僕がこうして宣言しておく意図を汲んではくれないのか?」
「はい?」
「今日みたいにお前に必要以上の心労をかけさえないように。
 という僕の心遣いを汲んではくれないのか?と聞いてるんだ。」

それどころかこちらの甘い部分を堂々と刺激されてセレストは降参のため息をつきそうになるが、長年この方のために心を砕いてきたものとしてここで流されてはいけないと踏みとどまる。

「…それでしたら探索自体を考え直してください。」
「うん、それは無理だな。」
「あっさり否定しないで下さいっ!!」

思わず荒げてしまった声にセレストは頭だけではなく胃が痛くなるような思いがしたが、カナンはあえて構わずにほら、行くぞ。と暮れ始めた空を背にすたすたと歩き出してしまう。
がっくりと肩を落としながらその後姿を見て自分はこの方を説得できるのだろうか…と途方も無く高いハードルにくじけそうになる。
だが、負けてはいられない。自惚れかもしれないが自分の言葉は彼の人に届くはずだから。

(だから…努力だけは惜しみません。)

とか、思っているんだろうな。
背後の気配にカナンは小さく肩をすくめる。でも…とセレストからは見えないように人差し指を口元に立てて笑う。

(僕の心は変わらないぞ。だから、僕はお前の心が動くように努力するんだ。)

根競べだ。
まず手始めに明日の探索から―――傾いだ気持ちを持ち直したセレストの今日の所業に対する小言を聞き流しながらカナンは静かな闘志に燃えていた。

(でも―――)

小言の呼吸の合間にセレストは想う。
言葉遊びのような相槌を打ちながらカナンは想う。

(今は共に居られるこの時間を、この幸福だと思える時を大事にしよう。)

いつか来る決断の日に向けて―――



   END
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