セピア色のこころ
目の前に大切な人がいた。
幻ではない、確かにここにいる。
自分の顔が喜びに綻んでいるのが分かる。
「隊長………」
目の前の人の名を呼ぶ。
心臓が僅かに高鳴っている。
しかし、目の前の人物の予想だにしなかった言葉に、別の意味で高鳴る心臓はショックを受けた。
「あの…どちら様ですか?」
「―――――!?」
何と残酷な響。彼の一言はこちらを砕くには十分すぎた。
何も言えないでいると、遠くから彼を呼ぶ声が耳に入ってきた。
視界の遠くに五人の女性らしき影があり、そこからの声だと必死で理解するのがやっとだった。
しかし、こちらの様子にまったく気づかないのか、目の前にいた大切な人はその影の所へ行こうと足を進めようとする。
「!まっ―――――――」
待って―――――と言いたかったのだが、ショックで声が奪われていた。
手を伸ばして掴もうとしたが、届かない。
追いかけようと足を動かそうとするが、縫い付けられたようにピクリとも動かない。
涙でゆがむ視界はどんどん遠くへ行ってしまう彼の背中を脳裏に焼き付ける。
がくん、と力なく膝をつく。
[大…神………隊…長ぉぉぉーーーっ!!]
音を発しない口を大きく開けてレニは誰にも届く事がない悲痛な叫びをあげた。
「隊…長ぉ………―――――
―――!はぁっはぁっはぁっ……はぁ…は…ぁ………」
肩で荒々しく息をする。
ひどく喉が渇いていた。目はこれでもかという位見開いている。
心臓が大きく波打っている―――――ひどくリアルな闇からのビジョン―――――
「…隊長ぉ…………」
ようやくそれだけを搾り出すと、ベッドを兼ねるイスからずり落ちた。
なんて出来事―――――
そのままの姿勢で顔を落とす。
夢と現の狭間を見つめていたレニが、先ほどまでの光景が夢であると認識するまでには時間がかかった。
「…夢………そう、あれは夢なんだ…現実じゃない………」
自分自身に言い聞かせる為、あえて声に出してみる。
遅れていた体の感覚をやっと感じる。ひどく震えている。
寝汗で体温が奪われた為の寒気だけではなかった。孤独という恐怖。
あの夢が現実の出来事となったらと考えたくないのに考えてしまう自分自身への不安。
「ボクは…………」
何も知らなかった。忘れられるかもしれないという事がこんなにも怖い事だなんて。
こんなにも―――悲しく痛いことだったなんて。
「……………水…」
例え気休めにしかならなくても、この渇いた虚脱感を少しでも潤す為に部屋を出る事にしたレニはおぼつかない足取りで廊下へ出た。
階段を下りた所で、耳が旋律を聞きつけた。それが音楽室から聞こえてくるものだと理解するのに時間はかからなかった。
そして、そこに誰が居るのかも。
しかし、レニは自身の渇きを拭う事を優先する事にしたので、あえてその部屋には立ち寄らず、まっすぐ厨房へ向かっていった。
「…………………はぁ…………」
コップ一杯の水を飲み干すのに、だいぶ時間を費やしたと思う。こんなことが自分に降りかかるなんて思いもよらなかった。
良くも悪くも大神という人物はこんなにも一人の人間の感情を占めてしまう力の持ち主だったという事か。
もう、部屋へ帰ろうと廊下へ出たとき、レニは軽い驚きを覚えた。
音楽室の旋律がまだ途切れていなかったからだ。
(まだ、起きていたのか………)
しばし、その場で改めて音を聞く。
暖かで、切なくて、穏やかで、優しくて―――――綺麗なメロディーだった。
その曲に少なからず興味を示したレニは音楽室へ足を向けることにした。
キィ…と金具の動く音を立てて音楽室へ立ち入ると、予想通りの演奏者がいた―――もっとも、今の帝劇の状況下では予想が外れる余地など、ないに等しいのだが。
ピアニストは突然の観客に演奏を中断して、話し掛ける。
「レニー?こんな時間にどうしたですか〜?」
「織姫こそ、なんでこんなじか――――」
「ああ!わっかりましたー
レニ、怖い夢を見たのでしょ〜それで、寝付けないのですね〜
まったく、レニもまだまだお子様ランチですね〜
しょ〜がないですから、わたしが特別に眠れるようにお話をしてあげるで〜す。」
レニの言葉を遮って夜も深いのに元気のあるマシンガン口調で強引にイスに座らせ、その横に自分も座る織姫に、レニは即座に言葉を返せなかった。
織姫の行ったことはあながち外れではなかったからだ。
しかし、かといって今は織姫の話を聞く気にはなれなかった。
「織姫、ボクは…―――――」
「いーから聞くでーーーす!!!」
断ろうと口を開いたとき、織姫はもの凄い形相でまたもやレニの言葉を遮った。
さすがにその形相にはレニも口を塞がざるをえなかった。
レニが動けない事を見取ると、織姫は顔を正しコホンッとひとつ整えて「お話」を始めた。
「むかーしむかし。ある男と女がいました。
二人は初めて出会った時からお互いに惹かれあい、将来を誓う仲になるのに時間はかかりませんでした。
そして、二人の間には一人の可愛らしい女の子が生まれました。
But。男は女の下を去ってしまいました。
…女は人知れず泣きつづけました。娘は、愛する母親を泣かせるその男を許せませんでした。
―――それから、何年もたって…娘はその男と会うことになりました。
男の真意を知り、娘は考えを改めました。
そして、全てを理解した娘は男と女に聞きました。
『どうして何年も遠く離れていたのに、こんなに思いあっていられたのですかー?』
すると、男と女はまったく同じ事を答えたのです。
『それは、相手を信じて愛していたから。』だと。
『不安に押しつぶされそうになった時もあったけれど
それでも相手を信じて、自分の気持ちを信じ続けていたから、結果が答えてくれたのだ。』と…
―――今も男と女は離れ離れで暮らしています。
気持ちを…心を、相手の傍において―――」
「…織姫、それって……」
いつの間にか話しに聞き入っていたレニは、今の「お話」について織姫に聞こうとした時、先ほどまでどこか遠くを見ているような顔していた織姫にまたもや口を塞がれた。
「さっこれでお話はお終いで〜す。
お話を聞いたら良い子はさっさと寝るものでーす!
さぁ〜部屋に行くでーす。」
強引に席を立たせ、ずいずいと背中を押して半強制的に連れて行く。
「ちょ…ちょっと、織姫……」
自室の前まで来てしまった所で、レニはようやく織姫に声をかけることが出来た。
「ん?何ですか〜一緒に寝て欲しいですか〜?」
「……………………………………………」
重たく首を横に振る。
「そですか。それじゃ、レニ。おやすみなさ〜い。チャオ!」
軽い口調で挨拶すると、織姫はたったと足早に一番奥の自分の部屋へ姿を消してしまった。
廊下において行かれたレニは、なぜか肩に重たい疲れを感じて力なく自室のドアノブをひねる。
その疲れのおかげか否かは分からないが、今度は夢を見ることもなく朝まで深い眠りにつくことが出来た。
怒涛の長い一夜が明けて―――晩夏の日差しが降り注ぐ中、レニはゆっくりとした足取りで帝劇の中を辿り歩いていた。
自室をスタート地点にサロン、テラス、ホール、玄関、地下格納庫、倉庫、プール、医務室、作戦司令室、楽屋、舞台―――――全てに懐かしい、暖かな空気があった。
最後に帝劇内で唯一の外、中庭へ足を踏み入れると強い光が飛び込んできて視界が一瞬真っ白になった。
反射的に目を瞬かさせる。ゆっくりと目を開けると、今の光があるモノに日の光が反射したものだとわかった。
中庭では、昨夜自分に「お話」を聞かせてくれた織姫が硝子のティーカップでお茶をしていた。
ちょうど彼女がティーカップを口へ運ぶ時に出くわした為、光がレニの方向へ軌跡を踏んだようだ。
その場から、織姫の横顔を見てレニは思った。
あんなに、彼女は落ち着いた表情をしていたのかと―――
いつも眩しくて<太陽の娘>という形容詞が嫌になるくらい似合う彼女が、こんな昼下がりの木漏れ日のような顔をしていることに、レニは初めて気がついた。
「……………………………」
サクッと草の上に一歩踏み出すと、その音を耳ざとく聞きつけた真っ白い犬が駆け寄ってきた。
中庭をテリトリーとする帝劇のマスコット的な番犬の行動で織姫はレニの存在に気がついたようだ。
「あら、レニじゃないですか〜いつからいたですか〜?」
「…今、来た所。」
駆け寄ってきた白い小さな友達と横に並んで織姫が座っているテーブルへ足を進める。
「そですか。
レニも飲みますかー?」
トレイに乗っているティーポットとカップを指す。
「…うん。じゃあ、もらう。」
織姫の向かいにあるイスに座り、彼女が入れてくれたお茶を口へ運ぶ。
ローズマリーだ。
「すみれさんも、さくらさんも、マリアさんも……み〜んないなくて静かですね〜。」
「そうだね。」
「さくらさんたちはもうすぐ帰ってくるハズで、マリアさん達は巴里で特訓中でしょうかね〜?」
「…たぶんね。」
ここで会話と言えるものは途切れて、中庭は自然が奏でる音で支配された。
のどかな空気に、いつの間にか足元の友は寝息をたてていた。
それからさらに時間は流れ、空に白月がうっすらと見え始めるまで、二人はそのままで過ごした。
時間の感覚がなかった、と言うのだろうか。あまりにゆったりとしていた。
「……織姫…」
珍しくレニからの言葉で切り離されていた時間はくっ付けられた。
「なんですかー?レニ。」
「………昨夜の、あの「お話」……いろいろと参考になった。
…その……考えが…落ち着いた、から……えっと………………………………
…………あの………………………………………………………………ありがとう…」
亀のように最後は顔をうずめてしまったレニの意外と言えば意外な言葉に織姫は一瞬目を丸くするが、すぐに言葉を返す。
「別に、礼を言われるほどの事でないでーす。
ただ眠れないって言うから、優し〜いわたしは「お話」をしてあげただけでーす。」
語尾に隠し切れない照れを持った言葉にレニは眠れないなんて言った覚えはなかったが、何も反論を返さなかった。
ただ、微笑んだ。
織姫はそのレニの表情に目を見張る。
いつの間にこんな女の子らしくなったのだろう、と―――
<正確な戦闘要員>という名誉か不名誉かわからない肩書きが怖いくらいに似合っていた彼女が、やわらかい花のようなしぐさを見せることに、織姫はときどき驚かされる。
そして、しみじみと思う。
「レニは、変わりましたね〜…」
昨年の秋を過ぎた頃から何度となく口にした言葉。
この言葉を発した時のレニの反応は微かに頬を染めて視線を動かすのが常だが、今日は違った。
「織姫も、変わったね。他人事に首を突っ込むようになった。」
いたずらっぽい笑顔と言葉に織姫は完全に不意打ちされた。言葉を出そうとしても上手くいつものトーンで出てこない。
「そ、そうですか〜〜?
…そ、それにしても、レニもまだまだですね〜〜そんなんじゃわたしのライバルにはなれませんよ〜!」
しまった、とそこまで言って織姫は口に手を当てる。言わないでおこうと思っていたのに、先ほどの不意打ちでつい口から出てしまった。
しかし、今日のレニの反応はとことん織姫にとってカウンターとなった。
「……その言葉、そっくり返すよ。」
帝劇を散歩しているうちにレニは気づいていた。織姫も自分と同じ不安を抱えていた事に。
そうでなければ、いくら一つ屋根の下で生活しているとはいえあの「お話」を自分に話す事はないだろう。
手の内を全て見透かされた織姫は、面白くないように口を尖らす。
「ふんっ……口が減りませんね〜!
いつからそんなイヤミを言うようになりましたですか〜
…中尉さんに会ってからですね〜。」
ふぅ、と息を漏らす。
「これで「忘れた」なんて言った日にゃ、中尉さんをボッコボコにしてやるで〜す!!
まぁ、もっとも……そんな事は臆に一つないでしょうけど〜
中尉さんはわたしたちの隊長さんですからねー…ね、レニ?」
「…そうだね。」
織姫の可愛らしい同意を求める声に、レニは優しく頷く。
もう、迷わない。信じているから―――――
装飾品も何もないレニの部屋のテーブルには、シンプルな写真立てが飾ってあった。
表情の硬かった少女と、穏やかな青年の笑みを写した写真。
セピア色の写真だが、その中の青年のまなざしはセピア色ではなかった。
自室に戻ってきたレニは大きめの水槽の中でふよふよと泳ぐ金魚を見つめながら、昨夜の自分に別れを告げた。
そうさ、ボクの知っている隊長は忘れたなんて言わない。
少し考えればわかったことなのに、なぜあんなに不安だったんだろう。
もう、大丈夫。信じているから。あなたがくれた全てを、信じているから。
隊長はボクをくすんだ世界から鮮やかな世界へと連れて行ってくれた。
知らないですんだかもしれない辛い気持ちも知ったけどそれ以上にたくさんの暖かさを知った。
この気持ちをなんて呼ぶんだっけ……みんなに感じる暖かさと違う、暖かさ―――
…ああ、そうだ。思い出した。
ねぇ、隊長。ボクは隊長の事を……―――――
END
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