初夏の出来事
風鈴の音が似合い始める季節―――アスファルトの照り返しが痛いくらいの道と比べて、今現在、草摩杞紗の歩いている学校から家への道のりは並木道になっている分、幾分かマシであったが少しくらくらする。
「杞紗っ」
突然呼び止められ、少しぼんやりしていた眼を左斜め前方の木へ向ける。見ると、自分より少々背の高くなった男の子が立っていた。
「燈路ちゃん…どうしたの?」
足を止めて小首をかしげながら尋ねると、燈路は杞紗の目の前にずいっとビデオテープを差し出した。
「オレは興味ないけど杞紗はコレ好きでしょ?貸すよ…オレは興味ないけどっ」
ゆっくりとした動きでビデオを受け取ると、杞紗は少し間を置いて燈路に微笑んだ。
「…ありがとう、燈路ちゃん。」
「っじゃあね!」
ふいっと顔を背けて燈路は足早にその場を去っていった。
耳まで真っ赤にしていたが、杞紗はそれに気づかず、少し寂しそうに眉を落としてビデオテープをカバンの中に入れると、また家路を進み始めた。
家路を進む杞紗は草摩はとりの診療所を通りがかったところで、意外な人物に声をかけられた。
「おや、さっちゃん。今学校の帰りかい?」
声がした診療所入り口の方を見ると、夏向けの着物を着てこちらに笑いかけている黒髪の男性がいた。
「しぐれのおじちゃん…どうして、ここに?」
学校帰りという問いに、頷きながら、杞紗は素直に自分の疑問を小さな声で口にした。
草摩紫呉は本家には住まず、外に家を構えているため行事以外で杞紗が紫呉を本家で見かけることはあまりない。
紫呉は杞紗の問いに、さらりと答える。
「ああ、透くんの付き添いだよ。はーさん僕が中にいると騒がしくするからって外で待たせているんだよ〜ひどいよね〜〜」
明るい調子の紫呉に対して、杞紗は心をざわつかせた。
「お、お姉ちゃん…どこか、悪いの……?」
その杞紗の様子に気づいた紫呉が安心させようとフォローを入れようとしたその時、診療所の扉が開き、はとりと杞紗の一番大好きな人が現れた。
「もうほとんど直っているが、傷当てだけはしておくように。」
「はい。はとりさん、どうもありがとうございました!」
杞紗の大好きな「お姉ちゃん」―――本田透は深々とはとりに頭を下げた。
はとりはわずかに微笑む。
「透くん、透くん。」
「あ、紫呉さん、お待たせいたしました―――あ!!」
紫呉の方へ振り返ると、透は杞紗に気がついた。
「杞紗さんっ」
真っ直ぐに向けられる暖かい笑顔に杞紗の顔も自然に緩む。その時、気づいた。
透の首筋から左肩の間に傷当てがされている事に。
無意識のうちに杞紗の視線はそこに集中していた。
そんな杞紗の視線に気づいた透は、杞紗を安心させる為に口を紡ぐ。
「これですか?ちょっと怪我をしてしまいまして…
でも、もうほとんど直っているから大丈夫ですよ。」
「ホント…?痛くない?」
「はい!全然平気ですよ。」
元気のいい透にとりあえず安心したのか、杞紗の顔から心配の色が薄れ、透に会えて嬉しいという色が強まっていく。
自然にお互いが微笑み合い、空気がとても暖かく感じられた。
その空気を汲み取ってか、はとりと紫呉も視線を交わす。
「…じゃあ、透くん。そろそろ行こうか?」
ひょっこり二人の間に顔を出しながら、紫呉が静かに明るく言うと、杞紗と視線を合わせるために屈んでいた透は上身を上げ、普通の状態に戻った。
「あ、はい。そうですね。
それでは、はとりさん、どうもありがとうございました。
杞紗さん、またねです。」
頭を下げてこの場を去ろうとする透だが、服の裾が少し引っ張られて一歩踏み出した足を止めてしまった。
杞紗の小さな手が透のスカートの裾を掴んだのだ。
「杞紗さん?」
透の声にはっとするように慌てて手を放した杞紗は、見る見る顔を赤らめながら首を縮めて「あの、その…あの……」と小さな声で言葉を探しているが、なかなか見つからない。
それを、見かねたのか、はとりが紫呉に目で合図をすると、紫呉は「OK」と片目を瞑ると杞紗にある提案をした。
「そうだ、さっちゃん。今度の休みは空いてる?」
唐突な紫呉の質問に、杞紗は驚いたように顔を上げる。
「え?う、うん…あいてるよ。」
「じゃあ、よかったら家に泊まりにおいでよ。ね、透くん?」
「は、はい!杞紗さん、是非いらしてください!!」
話を振られた透は「そうなったらこの上なく素敵な事」というような勢いで杞紗を誘う。
「うん、じゃあ…行く。」
みんなの行為を嬉しく思いながら、杞紗は少し照れた様子で返事をした。
「うわぁ!楽しみです!!
…それでは杞紗さん、土曜日に会いましょうね!」
嬉しさのあまり泣いてしまいそうな勢いで、透は杞紗に告げた。
杞紗も今までで一番嬉しさがあふれる笑顔で返す。
「うん…お姉ちゃん。」
一部始終を見て安心した―――という言葉が適当かどうかは不明だが、はとりはまた少し笑うと、診療所の中へ戻っていった。
その扉が閉まる音を合図に、透達も別れを告げ、それぞれの家路を歩み始めた。
家に着いた杞紗は真っ先に母親に今さっきの約束を嬉しそうに告げた。杞紗の母親は「よかったわね。」と笑った。
そのまま夕食を終え、続けて様々な事をこなし就寝の時間。
杞紗は自室で寝間着に着替えて、ぽすんっとベッドに体重を預けた。
少し空いた窓から夜風が頬をなでた。
もうすぐ一日が終わる。
(早く土曜日にならないかな……そうだ、お姉ちゃんと一緒に燈路ちゃんから借りたビデオ見よう。)
机の上に置いたビデオの方を見ながら杞紗はウキウキした気分で思いを巡らせる。
少し前まで、杞紗はこんな気持ちで床についたことは無かった。
いつも、憂鬱だった―――
しかし、透と出会ったことをきっかけに杞紗の世界は暖かさを取り戻してきていた。
「お姉ちゃん……大好き。」
自分の綺麗な気持ちを小さく言葉に乗せた杞紗は眠りにつき始めた。
おやすみ。明日も頑張ろう。
END
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