上野の森に出掛けよう!



  〜ヒューゴ編〜


「………どうしよう」

柔らかな日差しのある日。道行く人々が穏やかな雰囲気で休日を満喫している中で音子は上野公園の案内板前で途方に暮れていた。

「ええと、今いるのがここでしょ?で、こっちに行くためには…」
「…ミヤビ、何をしている」

目的地までの道筋を手にしたメモと案内板を照らし合わせようと首を上下にせわしなく動かしていたが、背後からかけられた聞き覚えのある声に振り向くとそこには外出時にはいつも持ち歩く黒い鞄を手にしたヒューゴがいた。

「あ、ヒューゴさん!実は……その、迷子になってしまいました…」
ほっとして浮かんだ笑顔を少しばつが悪そうな苦笑いに変えつつ素直に現状を話すと、ヒューゴは僅かに眉をひそめた。
「迷子?」
「ここに行きたかったんですけど…」

言いながら手に持っていたメモを見せるとヒューゴはメモと音子を交互に見つめ、また僅かに眉を動かしてから音子の先に進んだ。

「……こっちだ」
「えっあ、ありがとうございます!」

ヒューゴの意図を一拍置いて理解した音子はお礼と共に慌ててその背中について行く。
それから程なくしてとある重厚な西洋建築の前で二人は足を止めた。

「着いたぞ」
「うわぁ…すごい、こんなに立派な図書館、初めて見ました!」

さすが、帝都…と圧倒されて建物を見上げている音子をヒューゴはしばらくそのままにさせていたが、やがてぼそりと口を開いた。

「図書館に何の用だ?」
「それは、えっと…」

尋ねられた音子が目を泳がせて言いよどむ様子に、ヒューゴは余計な詮索だったと踵を返した。

「……言いたくないなら、別に構わない」

そのまま立ち去ろうとしたヒューゴを引き止めようと音子は咄嗟に袖を掴む。

「いいえ、そういうわけじゃなくて!あの…前にヒューゴさんが読んでいた小説に和訳があるってルイスさんから聞いて、図書館なら置いてあるかなぁと思って…」
「…………」

それは、先日のかなで寮で過ごした音子の初めての休日の出来事だった。
確かに興味を持っていたが、まさかそれが理由とは思わなかったヒューゴが驚きに目を見開く様子に、音子は自分が何を掴んでいるかを思い出し、慌てて手を離す。

「そ、それだけなんです。すみません引き留めちゃって…」
「……その本なら、二階の奥にあるはずだ。興味があるなら、読んでみるといい」
「は、はい!ありがとうございます!」

少なくとも怒ってはいないヒューゴの声に、ぱっと顔を上げた音子はもう一度礼を述べて足早に図書館の中へ入っていった。
その後ろ姿を見送ったヒューゴは、しばらく口元に手を当てて逡巡していたが、程なくして彼も図書館へと歩を進めた。


それから数刻後。空が朱くなり時刻を知らせる鐘が鳴ったのをキッカケにヒューゴは読み進めていた本を棚に戻し、別室へと向かった。
扉を開けると、そこには備え付けられた椅子に座って集中して本を読む音子の姿があった。

「…ミヤビ」
「へっ?…あ、あれヒューゴさん?」
「そろそろ閉館の時間だ。貸出手続きをするなら、本を持って下に」
「あ、はい」

突然現れたヒューゴに目をぱちくりさせつつも、まだまだ読み途中だった音子は言われた通りに一階で貸出手続きをし、ヒューゴと並んで図書館を後にした。

(どうしてヒューゴさんがあそこに居たんだろう?)

ちらりとヒューゴの横顔を伺う。夕焼けに照らされた表情がいつもより幾分穏やかに見えて、ドキッと跳ねた心臓を誤魔化すように本を抱え直す。

(…まぁ、いいか)

帰ったらまた続きを読もうと笑顔を浮かべた音子の横顔を一瞥し、ヒューゴはそれ以上何も言わず音子と共にかなで寮へ向かっていった。

音子が、心配で待っていたヒューゴの心情を察する事が出来るようになるのは、まだ先の話。





   〜ジオ編〜

「うーん……」

ある晴れた休日。音子は上野公園の案内板前で首を捻っていた。

「こっち…かな?あ、でもあっちにも美術館って書いてあるし…」

頭に疑問符を浮かべながらも、もう一度場所を確認しようと懐からメモを取り出すと同時に背後から知った声が音子の耳に届いた。

「音子君ではないか。どうかしたのか?」
「あ、ジオさん!実は……この美術館に行きたいんですが、美術館がたくさんあってどれがどれだか…」

振り返ると、佇まいもどこか優雅なジオが小首を傾げていたので迷っている自分に対する苦笑いと共に現状を説明すると、ジオは音子が手にしていたメモを受け取り場所を確認して一つ頷いた。

「ふむ……これならあちらだな。さ、行こうか」
「えっそんな、いいんですか?」
「案ずるな、道に迷った庶民を助けるのも貴族の務めだからな」

いつものキラキラした独特の物言いに、音子は思わず笑みを零して素直に頭を下げた。

「じゃあ、お言葉に甘えて…よろしくお願いします」

そんな音子の様子にジオも満足気に頷いた。


迷いの無い足取りでジオが向かった先は上野に数ある美術館の中でも最も規模が大きい国立美術館であった。

「さぁ、着いたぞ。おや、この特別展は…」

美術館の入口に大きな看板で案内が出ている特別展の内容にジオが目を瞬かせると、音子は少し照れくさそうに笑った。
そこには「出雲の至宝展」という文字と共に古代の出雲大社の様子が描かれていた。

「そうなんです、チラシで出雲って見かけてなんだか懐かしくなってしまって」
「ふむ、音子君の故郷か…」

呟き、右手を顎に添えながら音子を見つめ思案する。
そして、自分がどうしたいのか結論を出したジオはチケットを買おうと窓口に進もうとした音子を手で制し、自らが前に出る。

「ジオさん?」
「それは興味深いな。音子君さえ良ければ、一緒に見ても構わないかな?」

ジオの意図が掴めず、最初は首を傾げていた音子だったが真っ直ぐな言葉と視線に、頬へ熱が集まる事を自覚しつつもしっかりと頷き返す。

「もちろんです!」

その返事にジオは満足そうに笑みを深め、音子に手を差し出した。

「では、行こうか」
「はい!」

その手を取り、音子は思いがけない休日となった嬉しい気持ちで美術館へと向かっていった。





   〜桐朋兄弟編〜

日差しも徐々に強まる昼下がり。
昼食を食べ終えた音子がかなで寮の玄関から真っ直ぐに門を目指していると、不意に庭から声をかけられた。

「よう、音子!どこ行くんだ?」

足を止めてそちらに顔を向けると、大きく手を振りながら駆け寄ってくる源二と、その後ろを仕方ない体裁で歩む源三郎の姿があった。

「あ、源二くんに源三郎くん。実はね、上野動物園に行ってみようと思って」
「はぁ?…一人で?」

音子の口から出てきた意外な目的地に思わず源三郎が訝るように眉根をよせて声を上げると、音子は困ったように笑って頭に手を添えた。

「皆さん忙しそうだし…」

だが、その遠慮を源二は満面の笑みで音子の肩を叩き、軽く吹き飛ばす。

「何だよ、んなの気にするなって。よし!じゃあ行くか!」
「いいの?」
「もちろん!そうと決まったら早く行こうぜ!」

言うが早いか、門を一番に出て行った源二に向かってわざと大きくため息をついた源三郎も音子の先を歩き出す。

「まったく兄さんは本当に落ち着きが無いんだから…ほら、ミヤビもぼーっとしてないで行くよ」
「源三郎くんも来てくれるの?」
「ミヤビと兄さんだけじゃ心配だからね。保護者だよ、保護者」
「は、はぁ…」
「何か文句でもあるの?」

じろりと上から睨まれて、音子は慌てて首を振った。

「う、ううん!じゃあ、源三郎くんもよろしくね」

源三郎に笑いかけたところで二人を待ちかねた源二の「早くしろよー」という声に、音子は返事をしながら駆け出していった。



「お、ここの動物たちは触って大丈夫みたいだぜ」

到着した園内で珍しい動物たちを見て楽しんでいた三人だったが、源二が見つけた一角に目をやると、そこには低い柵が点在する広場に様々な動物が放し飼いにされていた。

「ふれあい広場…本当だ、ウサギにヤギに…あ、馬もいる!みんなかわいいなぁ〜あ、エサも置いてあるんだね」

広場の入口にある「お一人様一袋まで」と書かれた台の上にあった青草を音子が手にとっている間に広場の奥へと進んでしまう源二に気付いた源三郎が「兄さん勝手に走り回らないでよ!」と声をかけるものの、源二には届かなかった。
そうこうしている間に音子もエサを手にヤギが放されている柵に入ってしまったので源三郎も仕方なくそれに続いて柵の中に入ったのだが

「じゃあ、まずはヤギさんに……きゃあっ」

途端、短い悲鳴と共にエサの袋を落として飛び退いてきた音子に思わず声が上擦る。

「ちょっ!?いきなりしがみついてこないでよ!」
「ご、ごめんヤギさんが裾をかじったからちょっとビックリしちゃって」

咄嗟に掴んでしまった源三郎の着物から慌てて手を離す音子。

「まったく……人騒がせなんだから」

平静を装いつつ、ふいの出来事に跳ねた心臓を抑えようと源三郎がヤギの傍に音子が落としたエサ袋を拾い、その中から青草を取り出しヤギの口元に持っていく。

「ほら、こうやってしゃがんで手を前に出せばちゃんと草だけ食べるから」

大人しく葉をかじるヤギに、音子も今度は隣にしゃがんでヤギと源三郎を交互に見て感心したように目を瞬かせる。

「へぇ…やっぱり源三郎くんは動物たちに好かれるんだね」
「……それ、褒めてるつもり?」

やや的外れの感想に源三郎が呆れたような目線を送ると音子は、うっと言葉をつまらせた。

「あ、音子ちょっとこっち来てみろよ!」

だが、それ以上互いが言葉を発する前に柵をひょいと越えてきた源二が音子の手を掴み、素早く立たせるとあっという間に奥の一際広い場所でゆったり歩いていた馬の前へと引っ張っていってしまった。

「ほら、馬に乗ってもいいんだってさ。ちょっと乗ってみろよ!」

まるで突風にさらわれたようにされるがままついて来た音子だったが、源二の提案に目を丸くした。

「えぇっ!?わたし乗馬なんてした事ないよ!」
「大丈夫だって、落ちてもちゃんと受け止めてやるからさ!」
「そ、そういう問題じゃ…きゃあ!」

ためらっている間に、ひょいと抱き上げられ馬の鞍に横座り状態になった音子は、必死にバランスを取る。幸い、馬に暴れる様子は無く音子は普段よりずっと高い目線からの景色にきょろきょろと首を動かす。

「ほら、大丈夫じゃねぇか」
「うん…この子大人しいね〜」
「だろ?」
「まったく…本当に兄さんは突拍子もないんだから。だからいつまでたってもガキなんだよ」

得意気に笑っていた源二だったが、その背後から不機嫌さを隠さず近寄ってきた源三郎の売り言葉をそっくり買い取って眉を釣り上げた。

「んだとぉこらぁ!どこがガキだって言うんだよ」
「そうやってすぐカッとなるところだよ」
「ま、まぁまぁ二人とも…」

いつもの調子で始まってしまった兄弟喧嘩をなだめようと、音子が無意識に両手を胸の前に出した途端

「あっ!」
ぐらりとバランスが崩れ、なす術もなく前のめりに身体が傾く。
落馬しかけている音子に気付いた二人はピタリと言い争いを止め、同時に手を伸ばしてしっかりと抱き支えた。

「ひゃっ…!」
「っ……気をつけなよ!」
「怪我無いか!?」
「う、うん大丈夫……ありがとう二人とも」

大きな衝撃も無く着地した音子が切羽詰まった声で無事を確認してきた二人を安心させるよう笑顔を向けると、また同じタイミングで表情を緩めた。
その様子に音子が普段は正反対なように思える二人もやっぱり兄弟なんだ、と改めて感じると同時に園内に閉園時間を知らせるアナウンスが流れだした。

「あ、もうそんな時間なんだ…」

気が付いたら、だいぶ日も傾いてきている。

「じゃあ、そろそろ帰るか」
「そうだね。二人とも、今日はありがとう!」

源二の言葉に頷いた音子が改めて礼を述べると源二はすぐさま素直に返事をした。

「おう、また行こうな!」
「…しょうがないから、また時間があったら付き合ってあげるよ」

遅れて言葉を返した源三郎の相変わらずの物言いにまた源二が声を荒げる。

「こらぁ、源三郎!またそんな言い方して」

そこからまた小競り合いを始めた二人だったが、先程のような雰囲気ではなく、どこかじゃれ合うような様子に今日は楽しい休日だったと思い返しながら音子は微笑みを零した。





   〜ルイス編〜

お賽銭、鐘を鳴らして二礼二拍。

「………………」

そして一礼。
心地よい風が新緑の木々を揺らすある休日。
上野公園内の不忍池にある弁天堂への御参りを終えた音子が帰路につこうと参道を後にすると、ふいによく知った柔らかな声が耳に届いた。

「おや、音子さん」

振り向くと穏やかな笑みを湛えたルイスがこちらに向かってひらひらと手を振っていた。

「あ、ルイスさん。こんな所で会うなんて珍しいですね」
「音子さんはお参りですか?」
「はい。前にここの神様は芸事を司る神様だって聞いて…わたしに出来る事を精一杯がんばらなきゃって思ったので、改めて神様に誓ってきました」

ここ、弁天堂にはその名の通り七福神の一人としても馴染みのある弁財天が祀られている。
音楽に縁ある神としても親しまれている神を訪ねた音子の笑顔に、ルイスはさらに微笑みを深くした。

「そうでしたか。音子さんらしいですね」
「そうですか?」
「はい。神に願うのではなく、誓いをたてるところが」
「そ、そう言われるとなんか照れちゃいますね…ところで、ルイスさんはどうしてここに?」

当たり前だと思っていた事に感心されてしまった音子は照れを誤魔化すように髪に触れながら眉を下げてルイスに話を振った。

「私はただの散歩です。音子さん、今日はこの後何か用事はありますか?」
「いえ、今日はもうこれでかなで寮に戻ろうと思っています」
「それでは、一緒に帰りましょうか」
「はい!」

断る理由の無い音子は素直に返事をし、そのまま二人は並んで不忍池沿いを歩き出す。

「それにしても、ここの蓮ってすごいですね。池いっぱいに大きな葉っぱがたくさん…」

水辺を通る風に誘われるように音子は池に視線を向けるが、そこには大きな蓮の葉が一面に広がり水面を埋め尽くしていた。

「花も綺麗ですよ。もうすぐその季節ですね」
「蓮の花って朝に咲くんですよね?」
「ええ、見頃は早朝から昼頃までです。ここならかなで寮から近いですし、花が咲く頃にまた来てみましょうか」
「そうですね!早起き頑張ります…」

普段なら何とか起きれるのだが、休日となるとなかなかベッドから出られない事を自覚している音子が尻すぼみする語尾と共にやや目を逸らしたその姿に、ルイスはくすりと笑って人差し指を自身の口元に当てる。

「大丈夫ですよ。もし寝坊しそうになったら私が起こしてあげますから」

思わず赤面して見上げてくる音子に、ルイスは穏やかだけれどもどこか楽しそうな微笑みを返した。
季節は出会いの春から夏へと変わろうとしていた。


   END


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