移ろうものが齎すもの



 空が高く澄んだ色を見せる秋の昼下がり。窓辺から差し込む陽光に、レニはゆっくりと目を開けた。

「ん……」

徐々に視界と意識がハッキリする中で、レニは今いる場所が自室ではないことを認識し、ベッドに横たわっている自分の身体を起して辺りを見回す。白い壁に囲まれ、ブラウン系の調度品が備えられているシンプルな部屋―――

「…隊長の部屋?」

そう呟くと同時にドアが開き、この部屋の本来の住人が入ってきた。片手には水を張った洗面器と濡れタオルを持っている。

「あ、レニ。気がついたんだね。」

ドアを閉め、部屋の真ん中にあるテーブルの上に洗面器と濡れタオルを置き、イスを自分がいる枕元のすぐ横まで引っ張り腰をかける大神の一連の動きを、レニはぼんやりと目で追った。

「ちょっといいかい?
 ………うん、まだ少し熱があるね。」

座るなり、額に右手を当てた大神に、レニは疑問を口にする。まだ今の状況を把握しきれない。

「隊長、ボクはどうしてここに…?」

「覚えてないのかい?」

少々驚いた声を上げた大神だったが、すぐにレニに横になるように告げると、タオルを水に浸し、絞りながらレニが大神の部屋のベッドに寝ている経緯を話した。
今朝、朝食を食べ終わった大神が食堂から出て自室に戻ろうとすると、中庭から仔犬の鳴き声が絶えることなく響いていいて、不思議に思った大神がその声につられて中庭を覗くと、レニがベンチで赤い顔をして横たわっていたのだ。
本日は劇場休館日―――米田とかえでは朝一で陸軍省へ。三人娘は非番。花組六人は上州へ小旅行中。織姫は雑誌取材の為外出中―――という状況であった。

「今日の医務室は整備点検で入れないし、みんなもいないから…
 とりあえず俺の部屋で休ませようと思って…レニの部屋にベッドは無いしね。」

軽く笑いかけながら大神はレニの額にタオルを乗せる。ひんやりとした感触がレニの額から全身へと伝わる。

「そう…」

「一応、風邪薬とか頭痛薬とか持ってきたんだけど…飲むかい?」

「…いや、大丈夫。この症状なら薬はいらない。」

タオルの冷たさも手伝って頭に冷静さを取り戻したレニは、自分の体温・症状を把握し目線を大神に向けながらぽつりとそう言った。

「そうか…きっと疲れが出たんだよ。
 秋公演はすごい反響だったからね。黒鬼会との戦いもあったし…」

「…うん。」

「あ、何か軽く食べれる物を持って来ようか?レニ、まだ今日は何も食べてないだろう。」

「…そうだね、何か胃の中に入れた方がいいかもしれない。」

「じゃあ、ちょっと厨房に行ってくるから、ちゃんと寝てるんだぞ。」

「了解。」

レニがそう返事をすると、大神は立ち上がり、静かにドアを開け階下の厨房へと向かった。一人になったレニは、額に乗せられた濡れタオルの上に右手を軽く乗せて天井をぼんやりと見つめる。

「……………………」

なんと呼べばいいかわからない違和感にも近い感覚を抱えつつも、レニは大神に言われたとおり再び目を閉じて思考を停止させた。
時は大正十四年―――秋公演「青い鳥」も無事に終わった十月末の頃。



 大神が厨房に向かったのとほぼ同時刻。銀座四丁目の大通りではなく、一本奥の道で一台の帝都タクシーから一人の女性が降り立った。
運転手と軽く挨拶を交わし、タクシーが走り去るのを目で追うのは長い黒髪をポニーテールにし、さらにカールをかけた真紅のドレスの似合う褐色の肌をした見目麗しい女性―――ソレッタ・織姫である。

「ふぅ…みなさんは上州にバカンスだっていうのに、わたしたちはお留守番なんて
 ホント不公平でーす。そのうえ秘密特訓なんて言ってた割にはこーんなオフな時間もあるし…」

忙中間あり、という言葉通り花組六人は米田の勧めもあって彼が福引で当てた温泉旅行に旅立ったため、今頃は上州で温泉を満喫しているはずである。
―――もっとも、旅先で六人は現地の一騒動に巻き込まれるのだが、それはまた別の話。
ともあれ、少々不機嫌な気持ちを隠すことの無い表情で織姫は帝劇の裏口に当たる関係者口のドアノブを握る。劇場休館日は正面玄関も来賓用玄関も閉めきっている為、出入りはここからするしかないのだ。

「今日はこれからどうしましょうねー…
 ……!そーです、少尉さんも誘ってパパのお見舞に行くでーす!」

帝劇内に入りドアをきちんと元に戻すと、織姫は足を進めながら両手をパンッと叩いた。
長くすれ違っていたままの彼女と父・緒方星也がようやく和解したのはつい最近の出来事である。その際、緒方は負傷してしまい、今は傷の治療の為入院中であった。

「ナイスアイディアでー…って、イヤに静かですね。」

普段が賑やかな分、自分の声だけが反響する現在の状況に声のトーンを落とす。
最初はココがイヤで仕方が無かったが織姫だが、いつの間にか愛着が湧いたものだ。

「…早く少尉さんを探しましょー」

その織姫の意識改革の大役を担った人物を探す為に織姫は彼の居そうな場所をあたる。
だが、彼が見つかった場所は織姫にとっては意外な場所であった。

「少尉さーん!こんなところで何してるですか〜?」

織姫は厨房の入り口から大声でコンロの前に立っている大神に声をかけた。
驚いた大神は手に杓子を持ったまま振り返る。

「織姫くん、帰ってたのかい?」

疑問と質問になってしまった会話に、織姫がコマを進める。

「たった今ですけどね〜ってだから、少尉さんはそんなところで何してるですか!
 ニッポンのオトコはキッチンに足を踏み入れられないんじゃなかったですか?
 えっと…」

「男子厨房に入るべからず、かい?」

「そう!そーでーす。少尉さんはニッポンのオトコじゃないですかー」

大神のもとへと足を進めながら織姫は小首をかしげて大神に尋ねる。
そんな織姫に、大神は軽く笑ってみせる。

「はは…確かにそうとも言うけど、そればっかりじゃないんだよ。
 必要なら日本の男だって厨房に入るものだよ。」

「ふーん…そういうものですかー…」

納得したようなイマイチわからないような曖昧な顔つきで、織姫は次の質問を大神にぶつけた。

「でも、なんで少尉さんがここにいて、料理してるですか?」

「ああ、それはね…」

大神がレニが倒れた事を織姫に説明すると、織姫はまるでヘソで茶を沸かす現場を目撃したような驚きっぷりを見せたが大神が料理に神経を戻すと同時に、興味もそちらに移ったらしく大神が向かっているコンロの上にある物を覗き込んだ。

「あ、少尉さんリゾットとは気が利いてますね〜」

「リゾット?」

「あれ?これリゾットじゃないんですか〜?」

お互いに目を瞬かせながらコンロの上でぐらぐらと炊かれている白米を見る。それは日本人である大神から見てまごう事ない―――

「うん、これはお粥って言って普通より水分を多めにしてお米を炊いた物だよ。
 消化が良くて栄養があるから食欲がないときや胃が疲れているときによく食べるよ。」

大神が料理の説明をすると、織姫は少々驚いた様子で「お粥」と呼ばれた料理をもう一度まじまじと見る。

「ふーん、ニッポンにも同じようなものがあるもんですねー…
 リゾットよりも味気なさそうですが。」

「そうなのかい?」

「そーでーす。イタリアのリゾットはもっといろんな物が―――」

そこまで言った所で織姫は口の端でニヤリと笑った。名案を思いついたのである。

「そーだ少尉さん!リゾットを作ってみませんか?」

「えぇ俺がかい!?でも俺、リゾットなんて見た事も食べたこともないよ…」

「ノープロブレムでーす!わたしが昔ママに作ってもらったものを特別に教えてあげまーす。
 だから…失敗したら承知しませんよ!」

気分が乗った織姫の鋭い眼つきで見つめられた大神は、素直に頷くしかなかった。

(…ま、レニが倒れたなんて事態じゃお見舞にも行けませんしー…
 このくらいは少尉さんを独占してもバチはあたらないでーす。)





 夢は科学的に記憶や体験の断片がいくつも折り重なっているものと言われている。では、今見たものはどう説明すればよいのだろう?
浅い眠りから覚めたレニが最初に思ったことはそれであった。
彼女が今しがた見ていた夢は、幼い自分が大きくて優しい手の人物に頭を撫でてもらっているという夢であった。レニの記憶のかぎり、そんな雰囲気を感じたことは一度もない。
レニは横になったまま外からの光でうっすらと橙色に染まり始めた天井をぼんやりと見つめる。しばらく無心で見つめていたが、ふとレニは漠然とした不安にも近い思いを背中に感じた。

(…なんだろう、これは……敵の気配もないのに、こんな……)

それがなんと言う感情か、レニは明確に答えを出すことが出来なかった。窓の外から入ってくる銀座の雑踏の音も遠くに聞こえ始めた時、レニの頭に響いてきたのはドアをノックし、ドアノブを捻る音だった。

「レニ、気分はどうだい?」

「隊長…」

ドアを開け、顔を覗かせた大神にレニはすっと肩の力を抜いた。すると、不思議なことに先ほど感じた感覚も潮が引くように消えていった。

「…うん、もう大丈夫だと思う。」

レニの変わらぬ声のトーンに、大神はほっと息をつくと、ドアを大きく開けて左手に持っていた小さな土鍋とスプーン、それにコップ一杯の水を乗せたトレイを両手に持ち直し室内に入って来た。

「お粥…じゃなかった。えーと、リゾットを作ってきたよ。食べれるかい?」

「うん、大丈夫。
 ―――隊長、織姫帰ってきてる?」

ベッドの上で上半身を起した状態になり、大神からトレイを受け取る際にそう尋ねると、大神は頷き「どうしてわかったんだい?」と聞き返した。

「リゾットはイタリア料理だから、織姫が帰ってきて何か言ったのかな、と思ったから。」

「ああ、そうか。確かにその通りだよ。
 レニが寝込んでるって言ったら「体調がすぐれないときにはこれでーす!」って
 教えてくれたよ。」

それを聞いたレニは軽く頷く。大神が椅子に腰掛けるとレニはスプーンを手にとり、リゾットをすくうと口の中に運ぶ。

「ミルクのリゾットだね。おいしいよ。」

そこまで言って、レニは自分の口にした言葉に少し驚きを感じた。「栄養を摂取できれば味は関係ない」最近まで心からそう感じていた自分の口から「おいしい」という言葉が出るとは―――
レニの小さな動揺に大神は気づいていたが、特にそれには触れずに「そう言ってもらえると嬉しいよ。」とだけ言って続けて

「しっかり食べて、ゆっくり寝て―――みんなが帰ってくる頃には元気に向かえような。」

と手を伸ばしレニの頭を軽く撫でた。その手は大きくてとても暖かだった。

「?…レニ、どうかしたのかい?」

ふと大神がレニの顔を見ると、レニは軽く目を見開き、驚いたような、どこか呆けたような顔をしていた。

「ううん、なんでもない。
 …ありがとう、隊長。」

自然と出てきた感謝の言葉と共に笑顔を見せると、大神は少し照れたように笑い、「どういたしまして。」と返した。
その後、レニは食事に専念した為しばらく会話は一切なかったが気まずい空気はどこにもなく、薄茜に染まった室内は穏やかな雰囲気に包まれていた。





「あら、織姫。こんなところでどうしたの?」

その日の夜、陸軍省から帰宅したかえでは、サロンで一人ティータイムを過している織姫を発見して声をかけた。
声に気づいた織姫は顔を上げてかえでの顔を真っ直ぐに見る。

「あ、かえでさーん。おかえりなさいでーす。
 どうしたもこうしたも、わたし一人だけカゴの外なのでこうして気分転換してるでーす。」

「カゴの外…?」

カゴの外ではなく、蚊帳の外ではないかという言葉が過ぎったがそれをかえでは口に出すことはなかった。代わりに選んだ言葉は発言の原因を知るためのものであった。

「そういえば、大神くんとレニの姿がないわね。」

「……かえでさん、ちょっち来るでーす。」

カップの中の紅茶を全て飲み干すと、織姫は立ち上がりかえでの手を取ってサロンを出るべく歩き出した。かえでがどこに行くのかと聞く前に、織姫は手を放し目的の場所の前に立った。
そこはサロンから一番近い個室―――隊長室の前である。

「そーっとですよ、そーっと。」

音が立たないようにゆっくりとドアノブを捻り、数センチほど扉を開けた織姫は人さし指を口の前に立てながらかえでに中を見てみるようにと促した。
言われるまま中を覗くとかえでは「あら。」と小さく声をあげて微笑んだ。
かえでが見たもの―――それは大神のベッドで小さな寝息を立てるレニと、そのすぐ横の枕元のあたりで寝こけている大神の姿であった。
よくよく見ると、大神の左腕のシャツをレニの手がしっかりと握っている。
かえでは小さく頷くと、先ほどの織姫と同じように音を立てないよう注意してドアを閉めた。

「なんか知らないですけど、レニが壊れちゃったみたいでー…
 ああ、違いますね。気分が悪かったみたいでずっと少尉さんが看病してたでーす。」

「そうだったの…それでああなってるのね。」

「その通りでーす。」

「織姫、あなたもお疲れ様。」

かえでの笑みを乗せた言葉に、織姫は眼を二回ほど瞬かせたが、すぐに優美な笑顔を返す。

「かえでさん、ティータイムに付き合いませんか?」

「ええ、よろこんで。」

お互いに微笑み合うと、二人は再びサロンへ戻っていった。
サロンの扉が閉まると同時に、隊長室の中で眠っているレニの手がピクリと動いた。大神のシャツを少し強めに握り直す。

「……隊長…ボクは…………………………と会えて………良かっ…た……」

途切れ途切れの寝言の囁きを、聞いていたのは窓から差し込む月光と、空に瞬く星だけであった。





「おはよう、隊長。」

翌朝、大神が目を覚ますとそこにはすっかり回復したレニと、そのレニの異変を伝えた仔犬がいた。

「あ、レニ…おはよう。気分はどうだい?」

「うん、もう平常だよ。」

「そうか。良かった…」

「………あ、あの、隊長……」

立ち上がり、ネクタイを締めなおす大神のベストの裾をつかみながらレニは遠慮がちに声を出した。

「ん?なんだい?」

「…よかったら、一緒に散歩に行かない?」

「散歩」という言葉に反応するように、仔犬がワンッと元気良く吠えた。真っ直ぐにこちらを見て聞いてきたレニに、大神はニッコリと笑いかけると

「もちろん、俺でよければ一緒に行くよ。」

と答えた。快い返事に、レニは無意識のうちに微笑む。

「うん…じゃあ、行こう。隊長。」

「ああ。」

ドアを開けると同時に、待ちきれず飛び出した仔犬を追いかけるように二人そろって部屋を出る。
外は新しい一日の幕開けを告げる朝日で満たされていた。


    END

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